1980年代三宮センター街の南には?ダイエー村?があった。スーパーマーケットをはじめ、ファッションビル、ステーキハウス、ハンバーガーショップ、ドーナツショップ、スポーツ用品店…、なんでもあった。
昔の阪神春日野道駅(地下)のホーム幅はわずか2.6メートル。でもそれが特に危険とは思わせないほど、当時は危ない建造物や場所、あるいは住居はいたるところにあった。
神戸新聞会館大劇場、スカイシネマ、阪急会館、阪急シネマ、阪急文化、三劇、三映、朝日会館…、どこも入れ替えという仕組みはなかったため、途中から見始めて、見たところまできたら帰る、というようなこともあった。
はんごうすいさん、耐寒登山、小学校でも中学校でも、必ず行事に組み込まれていた。坂道の先は常に登山道につながっている。
丹波黒大豆が有名で、地元では夏になると飽きるほど枝豆にした黒大豆を食べさせられた(実際美味しかったけど、飽きてました。。。)
夜、東京駅から新幹線で新神戸や西明石まで移動するときに目にする光景:新大阪駅でほとんどの乗客が降りてしまい、貸切車両のようになってしまう。
たつの市にある某有名ランドセルメーカーの名前の由来の一つが「西播」と知って思わず「そのまんまやんけ!」とひっくり返りそうになりながらツッコミを入れる。
神奈川県横浜市神奈川区の存在を知って何故だか心がざわつく兵庫県神戸市兵庫区民。
あの時反対などしなければ、関西国際空港は神戸に出来ていて、後に地方空港なんて作ることなかったとずっと悔やんでいる。
鳥類の知識が無くてもコウノトリと他の鳥の見分け方は分かる。足にタグが付いているので。
但馬には片側1車線の自動車専用道路しかないので、高速教習はシミュレーターだった
高速神戸駅から東の線路が気になってしかたがないのは私だけ…?阪神と阪急どこで交差しているの???花隈から高速神戸に到着するときに窓から見るけどわからない…
芦屋はモナコかバチカンのような独立国
兵庫県を代表する山は六甲山と思われている節が多々あります。でも兵庫県で一番高い山は氷ノ山。鳥取との県境にある山です。ただ忘れられやすいのがたまにキズ。
神戸人は神戸人であることを自慢げに思っているが「〜しとぅ」「〜やっとぅ」「見とぅ」と、神戸弁をマネされるとバカにされたような気持ちになる。
今から40年くらい前の給食に「くじらのノルウェー風」とか「ビーフストロガノフ」とか、粋なメニューがあった。子供ながらに、「学校給食やのに頑張ってるなぁ」と感じていた。
播磨人は、「神姫バス」を、もっとリスペクトしてあげても、いいと思う。
中学2年では、鳥取県境に近い但馬の海岸で二泊三日の「臨海訓練」があった。1969年当時だが、往路はバスで、ほぼ一日がかり。復路は山陰線ー福知山線の鈍行列車で、三田の学校まで約6時間かけて帰って、それから1時間かけて神戸の自宅に戻った。淡路島に実家があった級友は、神戸からさらに2時間かけて家に帰って行った。途中、京都府をちょっとかすめるだけで、全ルートがほぼ県内。どんだけ広いんや…と、当時も思った。淡路の彼は、「5国」すべてを通過して帰った、ということなんだな……
阪神間の海側には埋立地が多くて「第三工区」や「第四工区」などの名前がついているが、他所から来た人には区別がつきにくいらしくよく迷子になったりする。
山陰本線、イノシシはねて遅延、鹿はねて遅延、余部強風で遅延乗り遅れそうなお年寄りがいて遅延「君だけのドアが開く♪」とはこの事
でも冬場は手動ドア降りる時は閉めるのがローカルなマナー
モロゾフが兵庫県だから、ロイズも兵庫県やろと思ったら北海道かいな!となるくらい兵庫県は広い
兵庫は溜め池の多い県でもある。冬、小野市役所前の県道を走っていると濃い霧がかかっていて道の両側に何も見えない区間があり物凄く不安になる。晴れていると、池の真ん中に道が通っているのだとすく分かるけれど。
自転車通学のことをチャリ通といいます。播磨にある高校ではチャリ通の子が多くいますが、神戸にある高校では坂が多いせいか、交通量の多さのためか、チャリ通の子はほぼいません。チャリ通禁止の高校もあるのかも。
そうだった。神姫バスは、播磨だけじゃなくて、丹波および三田と神戸市北区、西区でも、大切な「足」なのだった。神姫バス提供「歌声は風に乗って」って、まだやってます?
北但でも西部の人は鳥取と仲良し.お出掛けする街は “鳥取市” なんです.話す言葉も京阪神より外側の鳥取・岡山,北陸,尾張の訛りや方言が会話の端々に出ます.
関学の神戸三田キャンパスは三田市にあるが、田んぼに囲まれたキャンパスを見て「神戸」のイメージとの落差に騙されたと思う子(特に県外出身者)が毎年いるらしい先生曰く「神戸三田インターに近いから神戸三田キャンパス」とのこと
昔…て、まあ、1960年代くらいまで、神戸に「ラーメン屋」は、なかった。ラーメン屋はなかったが、「中華料理店」は、それより以前の昔から、掃いて捨てるほどあった。ちなみに今の南京町は、一度戦災で焼失した後、1980年代に復興されたもの。南京町として復興される以前、あの一帯には、ぼったくりの暴力バーとか怪しい店が軒を連ねていて、神戸で一番のデンジャラス・ゾーンだった。
山陽電鉄網干線住民として生まれ、19歳まで播磨で育ちました。幼少時は網干弁、高校では網干弁は怖いと聞き、姫路弁を使っていました。その姫路弁も慣れない人には怖いらしいと聞き、予備校では他県出身者にも通じるよう、神戸弁をを使っていました。今は北海道民です。すすきので酔客に絡まれた時など、網干弁は必殺技として有効です。昨年、某局「月曜から夜更かし」で「播磨弁通じない問題」が取り上げられていましたよ。
播磨地域のアイランド、家島(えじま)は、一人称を「ぼー」と言う。また、帰ることを「いぬ」と言う。おんなじ播州人でも聞きなれんと違和感ある。ニュアンス的には、べっちょないねんけど。
関東で同年代の兵庫県民に出会った時の最初の会話
「トライやる・ウィーク、どこいって何した?」
1980年代三宮センター街の南には?ダイエー村?があった。スーパーマーケットをはじめ、ファッションビル、ステーキハウス、ハンバーガーショップ、ドーナツショップ、スポーツ用品店…、なんでもあった。
昔の阪神春日野道駅(地下)のホーム幅はわずか2.6メートル。でもそれが特に危険とは思わせないほど、当時は危ない建造物や場所、あるいは住居はいたるところにあった。
神戸新聞会館大劇場、スカイシネマ、阪急会館、阪急シネマ、阪急文化、三劇、三映、朝日会館…、どこも入れ替えという仕組みはなかったため、途中から見始めて、見たところまできたら帰る、というようなこともあった。
はんごうすいさん、耐寒登山、小学校でも中学校でも、必ず行事に組み込まれていた。坂道の先は常に登山道につながっている。
丹波黒大豆が有名で、地元では夏になると飽きるほど枝豆にした黒大豆を食べさせられた
(実際美味しかったけど、飽きてました。。。)
夜、東京駅から新幹線で新神戸や西明石まで移動するときに目にする光景:新大阪駅でほとんどの乗客が降りてしまい、貸切車両のようになってしまう。
たつの市にある某有名ランドセルメーカーの名前の由来の一つが「西播」と知って思わず「そのまんまやんけ!」とひっくり返りそうになりながらツッコミを入れる。
神奈川県横浜市神奈川区の存在を知って何故だか心がざわつく兵庫県神戸市兵庫区民。
あの時反対などしなければ、
関西国際空港は神戸に出来ていて、
後に地方空港なんて作ることなかったと
ずっと悔やんでいる。
鳥類の知識が無くてもコウノトリと他の鳥の見分け方は分かる。
足にタグが付いているので。
但馬には片側1車線の自動車専用道路しかないので、高速教習はシミュレーターだった
高速神戸駅から東の線路が気になってしかたがないのは私だけ…?阪神と阪急どこで交差しているの???花隈から高速神戸に到着するときに窓から見るけどわからない…
芦屋はモナコかバチカンのような独立国
兵庫県を代表する山は六甲山と思われている節が多々あります。でも兵庫県で一番高い山は氷ノ山。鳥取との県境にある山です。ただ忘れられやすいのがたまにキズ。
神戸人は神戸人であることを自慢げに思っているが「〜しとぅ」「〜やっとぅ」「見とぅ」と、神戸弁をマネされるとバカにされたような気持ちになる。
今から40年くらい前の給食に
「くじらのノルウェー風」とか「ビーフストロガノフ」とか、粋なメニューがあった。
子供ながらに、「学校給食やのに頑張ってるなぁ」と感じていた。
播磨人は、「神姫バス」を、もっとリスペクトしてあげても、いいと思う。
中学2年では、鳥取県境に近い但馬の海岸で二泊三日の「臨海訓練」があった。
1969年当時だが、往路はバスで、ほぼ一日がかり。
復路は山陰線ー福知山線の鈍行列車で、三田の学校まで約6時間かけて帰って、それから1時間かけて神戸の自宅に戻った。
淡路島に実家があった級友は、神戸からさらに2時間かけて家に帰って行った。
途中、京都府をちょっとかすめるだけで、全ルートがほぼ県内。
どんだけ広いんや…と、当時も思った。
淡路の彼は、「5国」すべてを通過して帰った、ということなんだな……
阪神間の海側には埋立地が多くて「第三工区」や「第四工区」などの名前がついているが、他所から来た人には区別がつきにくいらしくよく迷子になったりする。
山陰本線、イノシシはねて遅延、鹿はねて遅延、余部強風で遅延
乗り遅れそうなお年寄りがいて遅延
「君だけのドアが開く♪」とはこの事
でも冬場は手動ドア
降りる時は閉めるのがローカルなマナー
モロゾフが兵庫県だから、ロイズも兵庫県やろと思ったら北海道かいな!となるくらい兵庫県は広い
兵庫は溜め池の多い県でもある。冬、小野市役所前の県道を走っていると濃い霧がかかっていて道の両側に何も見えない区間があり物凄く不安になる。晴れていると、池の真ん中に道が通っているのだとすく分かるけれど。
自転車通学のことをチャリ通といいます。
播磨にある高校ではチャリ通の子が多くいますが、神戸にある高校では坂が多いせいか、交通量の多さのためか、チャリ通の子はほぼいません。チャリ通禁止の高校もあるのかも。
そうだった。
神姫バスは、播磨だけじゃなくて、丹波および三田と神戸市北区、西区でも、大切な「足」なのだった。
神姫バス提供「歌声は風に乗って」って、まだやってます?
北但でも西部の人は鳥取と仲良し.お出掛けする街は “鳥取市” なんです.
話す言葉も京阪神より外側の鳥取・岡山,北陸,尾張の訛りや方言が会話の端々に出ます.
関学の神戸三田キャンパスは三田市にあるが、田んぼに囲まれたキャンパスを見て「神戸」のイメージとの落差に騙されたと思う子(特に県外出身者)が毎年いるらしい
先生曰く「神戸三田インターに近いから神戸三田キャンパス」とのこと
昔…て、まあ、1960年代くらいまで、神戸に「ラーメン屋」は、なかった。
ラーメン屋はなかったが、「中華料理店」は、それより以前の昔から、掃いて捨てるほどあった。
ちなみに今の南京町は、一度戦災で焼失した後、1980年代に復興されたもの。
南京町として復興される以前、あの一帯には、ぼったくりの暴力バーとか怪しい店が軒を連ねていて、神戸で一番のデンジャラス・ゾーンだった。
山陽電鉄網干線住民として生まれ、19歳まで播磨で育ちました。幼少時は網干弁、高校では網干弁は怖いと聞き、姫路弁を使っていました。
その姫路弁も慣れない人には怖いらしいと聞き、予備校では他県出身者にも通じるよう、神戸弁をを使っていました。
今は北海道民です。すすきので酔客に絡まれた時など、網干弁は必殺技として有効です。
昨年、某局「月曜から夜更かし」で「播磨弁通じない問題」が取り上げられていましたよ。
播磨地域のアイランド、家島(えじま)は、一人称を「ぼー」と言う。また、帰ることを「いぬ」と言う。おんなじ播州人でも聞きなれんと違和感ある。ニュアンス的には、べっちょないねんけど。
関東で同年代の兵庫県民に出会った時の最初の会話
「トライやる・ウィーク、どこいって何した?」