あれは当時の校長会かなにかの申し合わせだったと思います。自分が通っていた中学は「リベラル」で丸刈り強制ではありませんでした(前の大阪万博の頃です)。それでもクラブや、個々の先生(言う人も言わない人もいる)などいろいろな形で圧力はありました。
自発的に丸刈りにするのは勝手だけど、それを校則で強要したのは、やはり反省の要ありの黒歴史だと思います。
1968年に中高一貫校男子校に入学したら、ここも丸刈りが校則だった。
授業をボイコットした全校集会で、学校にこれを撤回させたのが1969年。実に痛快でした。
丸刈りでも許容範囲があって、人差指と中指で挟んではみ出す長さになったら散髪せなあかんかった。中学入学前は「え~!ハゲにせなあかんの!」と抵抗あったけど、男子皆そろって丸坊主やし、洗髪はラクチンでドライヤー要らずやし、寝ぐせ知らずで毎朝手間なくて、慣れればどうってことなかったな。
ホワイトタイガーの名前が公募されたのは、1985年。
応募された中で一番多かったのは「バース」、だったんだけど、阪急(ブレーブス)の遊園地に阪神の選手と同じ名は「まずい」と、別の名が採用された。
幼稚園の遠足で行ったし、うちの小学校は3学期の遠足は「お別れ遠足」と言って全学年阪神パークに行きました。各学年8クラスだから阪神パークはどこに行ってもうちの児童だらけ…
園内にあった映画館で「サンダ対がイラ」を見たような気がする。
一番良く連れて行ってもらった遊園地です。プールもあったし、動物園もあったし、菊人形もありましたね。両親とは宝塚にも枚方にも姫路にも行きましたが、祖父母も一緒に、というのはこの甲子園阪神パークが唯一でした。
阪神パークは、戦前には浜甲子園の阪神競馬場近くにあったそうです。
競馬場とともに、軍の飛行場として接収されたときに閉鎖され、戦後、今のららぽーとの場所で再開されたそうだ。
甲子園浜では、引き潮の時に、この旧・阪神パークの残骸が海底から出現します。
自転車でアワイチ(淡路一周)をする人は体の左半分が焼けがち
時計回りで走るとだいたい太陽が左手にある
ある日生まれも育ちも東京の後輩社員が「ほんま、あいつごうわきますわ」と話していたのでなぜそんな播州言葉を話すの?と尋ねたら「自分は東洋大学野球部にいましたが東洋大姫路出身の野球部員がよく使うので自分もつい。」と言っていました。元巨人の清水も使っていたとか(笑)
母校がセンバツに出場したとき、応援は、現地集合、現地解散だった。
友人と連れ立って電車で甲子園へ行くと、アルプス席の入場口に立った先生が、三々五々やってくる生徒に入場券を渡していた。
武庫川駅をはじめ、香櫨園、芦屋川、石屋川と、阪神電車には、川を跨いでホームのある駅が多い。
香櫨園駅のホームには、夙川の真上に出られるバルコニーがあって、桜の季節には、わざわざ途中下車してここから桜を眺める人も多い。
芦屋駅のホームから川沿いに山手を望む景色も、和みます。
何度か投稿しているが、“神戸・阪神”地域でいいのか不安になる。
猪名川町が“神戸・阪神”に地域分けされているのが申し訳なく感じる。
神戸市の学校は校外学習の後、帰る時の集合場所が絶対に東遊園地。ルミナリエの建っていない東遊園地に児童、生徒、学生がいたら、だいたい校外学習
「夢と未来を応援します」でおなじみばんしんのCMは明石駅で大音量で流れているので、校外学習の解散時の先生の話が一切聞こえない。
明石駅の広告掲示板、「デンタルオフィスゥゥゥゥゥゥゥゥウ!!キタァァァァァァアノォォォォォォオ!!!!!!」
京都人にとって「前の戦」と言えば太平洋戦争ではなく応仁の乱(蛤御門の変とも)を差すという都市伝説(?)があるが…
兵庫県で十年ぐらい前までは「地震」「震災」とは、関東大震災等ではなく、阪神淡路大震災を指す言葉だった。
東日本大震災以降は、ある程度言葉を変えるようになったが。
このU5Hの漫画を描いてる、もぐらさんの『うちのトコでは』。
第一巻の阪神淡路大震災を描いた「夢の架け橋」を読んで、涙した兵庫県民多数・・・