小さい頃に初めて迷子になった思い出の場所でもあります。。
「世界は一つ」がパクリと言う話ですが、64年のNY万博での特設の模倣であって、千葉やフロリダより遥かに古く、ロスに移設された常設とほぼ同時に公開されてます。当時にその速度感で歌劇団に作曲、設営していた事を誇りたい物ですが…
半世紀以上経った今も、強制的に丸刈りにされた屈辱は、思い出すたび腹が立ちます。
頭髪が自由になった後は、反動で肩まで髪を伸ばしていました。
高校生になると、従妹の通っていた東京都立高校では、制服がなくて私服登校なのが羨ましくて、運動しようとしたが、これは実現しなかった。
あれは当時の校長会かなにかの申し合わせだったと思います。自分が通っていた中学は「リベラル」で丸刈り強制ではありませんでした(前の大阪万博の頃です)。それでもクラブや、個々の先生(言う人も言わない人もいる)などいろいろな形で圧力はありました。
自発的に丸刈りにするのは勝手だけど、それを校則で強要したのは、やはり反省の要ありの黒歴史だと思います。
1968年に中高一貫校男子校に入学したら、ここも丸刈りが校則だった。
授業をボイコットした全校集会で、学校にこれを撤回させたのが1969年。実に痛快でした。
1963年小学校の遠足で行きました。
記念写真をレオポンの檻の前でとりましたが、残念ながらレオポンは写っていません。左上の看板に1959年レオ吉・ポン子。1961年ジョニー・チェリー・ディジーが生まれたと書いてあります。
幼稚園の遠足で行ったし、うちの小学校は3学期の遠足は「お別れ遠足」と言って全学年阪神パークに行きました。各学年8クラスだから阪神パークはどこに行ってもうちの児童だらけ…
園内にあった映画館で「サンダ対がイラ」を見たような気がする。
一番良く連れて行ってもらった遊園地です。プールもあったし、動物園もあったし、菊人形もありましたね。両親とは宝塚にも枚方にも姫路にも行きましたが、祖父母も一緒に、というのはこの甲子園阪神パークが唯一でした。
1980年代にお世話になった神戸の社長さん。「ボク、三中やねん」と言うので、「三田中学ですか?」と問い返すと、「神戸三中や!」と、途端に不機嫌に。
旧・一中(神戸)、二中(兵庫)、三中(長田)には、今も「ナンバースクール」の矜持は、残ってるんでしょうか?
姫路出身と言うと田舎者呼ばわりする人の大半が姫路より田舎出身が多い。
姫路は関西で5番目に人口多い市町村やねんぞ!
春場所が始まった。
貴景勝の取り組みの時、「ふるさと、大阪の地で…」とか言われると、「ちゃうやろ」と、思わずテレビに向かって突っ込んでしまう。
三田の某中高一貫校が母校です。
60年代末に入学したころ、「ちょっと前まで、灘中は、うちの滑り止めやったのに…」と頻りに残念がる先生がいて、「ちょっと前、ていつですか?」と訊いたら、「戦争前や」と言われました。
他県に来て、小学校とか中学校の時の思い出を話すと、なにそれ?っていわれるのが「油引き」と「日番」です。油引きはワックスがけで日番は日直なんですけど、変換でも出なかったりで初めて言われたときは何気にショックでした。
垂水のあたりで山陽電車から見える海がきれいでいつも見入ってしまいます。
海が“シケタ”時、西浦の海岸沿いを車で走ると、車に直接波や時には海藻もかぶるので、できるだけ山の道を駆使する。
土日ともなると、武庫川河川敷のあちこちで、少年野球の練習風景が見られる。
いろんなチームがあるようだが、「タテジマ」ユニホームが多いように見えるのは、気のせい、だろうか?
神戸市兵庫区出身の新郎は、東京都世田谷区出身の新婦と生活始めるのに、阪急六甲から坂を登って約15分のマンションを契約した。
住み始めると、駅から遠い上に坂もきついと不満たらたらの新婦に、「けど、阪急やで。阪急なんやで」と力説したのだが、「それがどうしたのよ」と返されてしまった。
司馬遼太郎は、「大阪平野」ではなく「摂河泉平野」と呼んでいた。
その西の端っこに位置する阪神人としては、その呼び方の方が「仲間外れ」感がなくて好もしい、と思う。
兵庫県内だけを指して「阪神平野」との呼び名もあるが、「摂河泉」の方が雄大で好きだな。