ある日のあるテレビ番組の特集で、『今タピオカが大ブームで、表参道エリアには実に27軒ものタピオカ専門店が…』と言っていたが、こっち(三宮・元町・南京町)ではそれ以前から普通に有ったし、何より、今後ブームが廃れたらそのお店さん達はどうするんだろうと逆に心配になった。
はじめて横浜を訪れたのは、1970年代。伊勢佐木町では、「三宮の方が賑やかや」と優越感にひたり、元町では「神戸の元町の勝ち」と断言。山手は、(神戸の山手と比べて)「まあまあやね」。が、中華街だけは「負けた」と思った。今も負けてると思う。
去年(2018年)のセンバツ大会兵庫県から選ばれなかった(泣)おかげで甲子園から三宮方面の阪神電車は比較的空いていたように思う阪神さん的に「兵庫の高校も選んどけよ!」と思ったんとちゃうか?
かつて、神戸から大阪へ行くのなら、阪急か阪神、京都へ行くなら阪急、と決まっていて、大阪でも京都でも、「国鉄で行く」という選択をする人は、ごくわずかだった。とある午後、国鉄時代の新快速で大阪から三宮まで帰ったことがあるが、1車両まるまる「貸切」状態だった。ちなみに、当時の新快速の停車駅は、京都-大阪-三ノ宮-明石-姫路。新大阪も神戸も通過で、特急よりも速かったが、それでも客がいなかった。この図式は、国鉄がJRになっても変わらなかったのだが、それが逆転したのは、阪神大震災がきっかけだった。震災で、大阪ー神戸間の鉄道は、阪急も阪神もJRもすべて不通となったのだが、JRの復旧が、阪急や阪神よりも段違いに早かったので、JRに乗客が集中し、阪急、阪神の復旧後もそれが続いたのだった。
大阪・梅田から三宮へ帰るとき、阪急の場合王子公園の観覧車がみえると、「もうすぐやな」と思い、阪神の場合地下に入ると「もうすぐやな」と思う。
先日、「ポートタワー」を「神戸タワー」と紹介するサイトがあって愕然とした。「神戸タワー」は今は取り壊されてもうないが、、大正時代から昭和40年代まで、新開地にあったコンクリート造りの塔で、当時は「モダン神戸」の象徴だった。自分は1956年生れだが、我々の世代が、「東の浅草、西の新開地」を、実体験として知っている、最後の世代だと思う。元町・三宮は、買い物に行く街、新開地は、映画を見たり芝居を見たり、うまいものを食べたり(人によっては「H」方面も)、と遊びに行く街、という棲み分けがあった。50年前の新開地本通りは、ことに年末ともなれば、人でごった返して身動きもとれなかった…のを、想像できるかな?
1980年代三宮センター街の南には?ダイエー村?があった。スーパーマーケットをはじめ、ファッションビル、ステーキハウス、ハンバーガーショップ、ドーナツショップ、スポーツ用品店…、なんでもあった。
神戸の北区(山の上)に住んでると、昔は神戸や三ノ宮に行くことを「下におりる」って言うてた。「今度の休み、下おりようや!!」みたいな…今は言わないかなぁ?
阪神国道線(路面電車)があったころ「阪神パーク前」という駅(停留所)があった。阪神三宮の切符売場の路線図を見て「阪神パーク前」まで切符を買うのだが、(路面電車に乗り換えるために)甲子園駅に降り立つと、阪神パークは徒歩の距離とわかり、路面電車を待たず、そのまま阪神パークまで歩いて行った。
神戸で一番交通の便が良い場所は、実は三宮ではなく高速神戸。阪神、阪急、山陽は言うまでもなく、JR、市営地下鉄西神・山手線、海岸線、(頑張れば)神鉄と、計7路線が徒歩圏内。神戸駅のバスターミナルから行ける範囲も含めると、まさに神戸のどこでもドア。
ある日のあるテレビ番組の特集で、『今タピオカが大ブームで、表参道エリアには実に27軒ものタピオカ専門店が…』と言っていたが、こっち(三宮・元町・南京町)ではそれ以前から普通に有ったし、何より、今後ブームが廃れたらそのお店さん達はどうするんだろうと逆に心配になった。
はじめて横浜を訪れたのは、1970年代。
伊勢佐木町では、「三宮の方が賑やかや」と優越感にひたり、元町では「神戸の元町の勝ち」と断言。
山手は、(神戸の山手と比べて)「まあまあやね」。
が、中華街だけは「負けた」と思った。
今も負けてると思う。
去年(2018年)のセンバツ大会兵庫県から選ばれなかった(泣)
おかげで甲子園から三宮方面の阪神電車は比較的空いていたように思う
阪神さん的に「兵庫の高校も選んどけよ!」と思ったんとちゃうか?
かつて、神戸から大阪へ行くのなら、阪急か阪神、京都へ行くなら阪急、と決まっていて、大阪でも京都でも、「国鉄で行く」という選択をする人は、ごくわずかだった。
とある午後、国鉄時代の新快速で大阪から三宮まで帰ったことがあるが、1車両まるまる「貸切」状態だった。
ちなみに、当時の新快速の停車駅は、京都-大阪-三ノ宮-明石-姫路。
新大阪も神戸も通過で、特急よりも速かったが、それでも客がいなかった。
この図式は、国鉄がJRになっても変わらなかったのだが、それが逆転したのは、阪神大震災がきっかけだった。
震災で、大阪ー神戸間の鉄道は、阪急も阪神もJRもすべて不通となったのだが、JRの復旧が、阪急や阪神よりも段違いに早かったので、JRに乗客が集中し、阪急、阪神の復旧後もそれが続いたのだった。
大阪・梅田から三宮へ帰るとき、阪急の場合王子公園の観覧車がみえると、「もうすぐやな」と思い、阪神の場合地下に入ると「もうすぐやな」と思う。
先日、「ポートタワー」を「神戸タワー」と紹介するサイトがあって愕然とした。
「神戸タワー」は今は取り壊されてもうないが、、大正時代から昭和40年代まで、新開地にあったコンクリート造りの塔で、当時は「モダン神戸」の象徴だった。
自分は1956年生れだが、我々の世代が、「東の浅草、西の新開地」を、実体験として知っている、最後の世代だと思う。
元町・三宮は、買い物に行く街、新開地は、映画を見たり芝居を見たり、うまいものを食べたり(人によっては「H」方面も)、と遊びに行く街、という棲み分けがあった。
50年前の新開地本通りは、ことに年末ともなれば、人でごった返して身動きもとれなかった…のを、想像できるかな?
1980年代三宮センター街の南には?ダイエー村?があった。スーパーマーケットをはじめ、ファッションビル、ステーキハウス、ハンバーガーショップ、ドーナツショップ、スポーツ用品店…、なんでもあった。
神戸の北区(山の上)に住んでると、昔は神戸や三ノ宮に行くことを「下におりる」って言うてた。
「今度の休み、下おりようや!!」みたいな…
今は言わないかなぁ?
阪神国道線(路面電車)があったころ「阪神パーク前」という駅(停留所)があった。阪神三宮の切符売場の路線図を見て「阪神パーク前」まで切符を買うのだが、(路面電車に乗り換えるために)甲子園駅に降り立つと、阪神パークは徒歩の距離とわかり、路面電車を待たず、そのまま阪神パークまで歩いて行った。
神戸で一番交通の便が良い場所は、実は三宮ではなく高速神戸。阪神、阪急、山陽は言うまでもなく、JR、市営地下鉄西神・山手線、海岸線、(頑張れば)神鉄と、計7路線が徒歩圏内。神戸駅のバスターミナルから行ける範囲も含めると、まさに神戸のどこでもドア。