JR姫路駅周辺が変化し続けており、帰省するたび、多くの播州人が驚いている。
「♪有馬兵衛の紅葉閣へ!」のコマーシャルを、東京でもやってるのを見て、「え!?」とびっくりしたのは1975年だった。その翌年、神戸へ遊びに来た埼玉の友は、「♪伊東へ行くならハ・ト・ヤ」のコマーシャルを見て、「こっちでもやってんだ…」と絶句していた。
但馬の柏原は、日本一標高の低い中央分水界があることで有名だが、神戸でも、平野から有馬街道を北上していくと、時々道に寄り添う川は、当初は南向きに流れている(明石川水系)のだが、北区大池を境に、北向きに流れが変わる(武庫川水系)。実は神戸にも分水嶺があるのだった。
「ええとこ、ええとこ聚楽館」「三角公園」「楠公さん」「みなと祭りの花電車」賑やかだったころの新開地を思い出すと、そんなフレーズが浮かんでくる。
神戸・北野町に観光客が押し寄せるようになったのは、1977年のNHK朝ドラ『風見鶏』がきっかけだった。それ以前の北野町~山本通り界隈は、実は「ラブホ街」だった。観光客が続々と押し寄せて、「カップルが入りにくくなった」と廃業するラブホもあったが、今なお結構残っている。
祭りの時、やっさが見えなくても太鼓の音でどこの町か分かる。
「兵庫県」とテレビなどで紹介されていても、「どうせ南部だろ…。」と、他人事のように感じてしまう。
玄武岩という岩石の名前の由来は豊岡の玄武洞が由来。でも言わない。
数万トン級の船の進水式が見れる。練習帆船日本丸と海王丸のランデブー入港が見れる、自衛隊の艦艇一般公開が見れる。潜水艦だって見れる。外国客船の入港数も盛り返しつつある。
大阪・梅田から三宮へ帰るとき、阪急の場合王子公園の観覧車がみえると、「もうすぐやな」と思い、阪神の場合地下に入ると「もうすぐやな」と思う。
ここを見て初めて、子どもの頃使っていたノートが神戸ノートと言われていて、神戸でしか使われていないと知った……マジかー
夏は猛暑、冬は豪雪でよくテレビに登場する豊岡
一度、神戸新聞にのりましたが東播地区辺りは夜になると空が黒ではなく赤になると言われましたね。でも今でもやはり赤いときがある。
明石の会社に勤めている時、10月13・14日が会社がなぜ休日なのかわからなかったが、高砂の会社に勤めだしてやっとわかった。社長が高砂市出身で祭りの日でした。
なぜか最近、神戸・阪神でも固有の文化のように語られる「いかなご釘煮」だが、あれは元々は播磨の郷土料理だ。40年と数年前、垂水在住の友人の家で、毎年「釘煮」というのをを作っていると聞き、初めて見たそれを食わせてもらって「へ~え」と思った。明石の親戚と長田に嫁いだ「姉ちゃんの家」でも同じものを作るのだと、そのとき聞いたが、自分の知る限り、少なくとも神戸の兵庫区以東、北区以北で、「作っている」という例は、当時では見たことがない。
先日、「ポートタワー」を「神戸タワー」と紹介するサイトがあって愕然とした。「神戸タワー」は今は取り壊されてもうないが、、大正時代から昭和40年代まで、新開地にあったコンクリート造りの塔で、当時は「モダン神戸」の象徴だった。自分は1956年生れだが、我々の世代が、「東の浅草、西の新開地」を、実体験として知っている、最後の世代だと思う。元町・三宮は、買い物に行く街、新開地は、映画を見たり芝居を見たり、うまいものを食べたり(人によっては「H」方面も)、と遊びに行く街、という棲み分けがあった。50年前の新開地本通りは、ことに年末ともなれば、人でごった返して身動きもとれなかった…のを、想像できるかな?
1970年代のことだが、神戸を舞台とした漫画で、「第二神明」を「第二名神」と誤記していて、抗議の葉書を送ったことがある。「兵庫県三田市」に、「みたし」とルビを振っている雑誌もあった。
丹波から宝塚の方の高校に行って友達に 「○○ちゃん来ちゃった」と言ったら 「来たらあかんの?」と、 〜やりよった みたいな意味で伝わったこと。丹波の黒豆で丹波が伝わること。
明石の観光名所を聞かれても『明石海峡大橋』は言いづらい明石っ子。
『神戸ノート』は色を見るだけで教科がわかる。
県外と県内では『姫路』の発音が違うし、イメージも違う。
高校野球の中継でアナウンサーが大阪府代表校を指して「地元のチーム」と言うのに対して、心の中ではちゃうのになーと思いつつ、もはやヌル~く許している。
豊岡の測候所が無人となった今、神戸で出される兵庫北部の天気予報よりも、鳥取の天気予報の方が当たる気がしてる
なんかしらのアンケートで居住地を求められたとき、選択肢が「兵庫県」までしかないとモヤモヤする。別にそれで間違いないし、無理くり神戸市とまでは書かないんだけど。
高校生の時、友達のことを、おまんと呼んでいたら周りからいやらしい目で見られた。
JRが国鉄だったころ、中学校の修学旅行は「団体専用列車」が組まれ、3~4校まとめて利用していた。
何年か前だが、“丹波篠山の奥座敷”籠坊温泉で食べた牡丹鍋、猪肉の食感が「ぷりぷり」としていて絶品だった。味噌と砂糖の味付けも絶妙だった。あれから、他でも牡丹鍋を食べる機会があったが、あれ以上のものには、未だ出会ったことがない。
神戸市北区は電波障害地域がところどころにあり、通常のアンテナだと新聞のテレビ欄とはまったく関係のない放送局の番組しかはいらない。感度のいいラジオだとダイヤル選局の途中で、半島の放送や、佐世保米軍基地のFEN(現AFN)の放送が入ってくる。ということでしかたなくケーブル配信のサービスを受けている。
おでん,ひねぽん、なんでも姫路名物と言うのはおかしい、播州名物ちゃーうんけー.
「神戸ノート」だが、自分の知る限り、少なくとも60年以上前から存在した。しかも、使用される写真は時代によって変遷しているが、基本デザインと科目別の「色」は、60年以上(70年以上、かも)にわたって、ずっと変わっていない。あのノートが「神戸限定」だというのは、中学生になって初めて知った。それまでは、全国どこでも、小学生はあのノートを使って…というか、全国どこでも地域ごとにノートがあるのだと思ってた。「ジャポニカ学習帳」の登場は1970年だそうだが、それ以前、神戸以外の小学生は、どんなノートを使っていたのか、是非訊いてみたいが、知っている方はおられるでしょうか?
JR姫路駅周辺が変化し続けており、帰省するたび、多くの播州人が驚いている。
「♪有馬兵衛の紅葉閣へ!」のコマーシャルを、東京でもやってるのを見て、「え!?」とびっくりしたのは1975年だった。
その翌年、神戸へ遊びに来た埼玉の友は、「♪伊東へ行くならハ・ト・ヤ」のコマーシャルを見て、「こっちでもやってんだ…」と絶句していた。
但馬の柏原は、日本一標高の低い中央分水界があることで有名だが、神戸でも、平野から有馬街道を北上していくと、時々道に寄り添う川は、当初は南向きに流れている(明石川水系)のだが、北区大池を境に、北向きに流れが変わる(武庫川水系)。
実は神戸にも分水嶺があるのだった。
「ええとこ、ええとこ聚楽館」
「三角公園」
「楠公さん」
「みなと祭りの花電車」
賑やかだったころの新開地を思い出すと、そんなフレーズが浮かんでくる。
神戸・北野町に観光客が押し寄せるようになったのは、1977年のNHK朝ドラ『風見鶏』がきっかけだった。
それ以前の北野町~山本通り界隈は、実は「ラブホ街」だった。
観光客が続々と押し寄せて、「カップルが入りにくくなった」と廃業するラブホもあったが、今なお結構残っている。
祭りの時、やっさが見えなくても太鼓の音でどこの町か分かる。
「兵庫県」とテレビなどで紹介されていても、「どうせ南部だろ…。」と、他人事のように感じてしまう。
玄武岩という岩石の名前の由来は豊岡の玄武洞が由来。でも言わない。
数万トン級の船の進水式が見れる。練習帆船日本丸と海王丸のランデブー入港が見れる、自衛隊の艦艇一般公開が見れる。潜水艦だって見れる。外国客船の入港数も盛り返しつつある。
大阪・梅田から三宮へ帰るとき、阪急の場合王子公園の観覧車がみえると、「もうすぐやな」と思い、阪神の場合地下に入ると「もうすぐやな」と思う。
ここを見て初めて、子どもの頃使っていたノートが神戸ノートと言われていて、神戸でしか使われていないと知った……マジかー
夏は猛暑、冬は豪雪でよくテレビに登場する豊岡
一度、神戸新聞にのりましたが東播地区辺りは夜になると空が黒ではなく赤になると言われましたね。でも今でもやはり赤いときがある。
明石の会社に勤めている時、10月13・14日が会社がなぜ休日なのかわからなかったが、高砂の会社に勤めだしてやっとわかった。社長が高砂市出身で祭りの日でした。
なぜか最近、神戸・阪神でも固有の文化のように語られる「いかなご釘煮」だが、あれは元々は播磨の郷土料理だ。
40年と数年前、垂水在住の友人の家で、毎年「釘煮」というのをを作っていると聞き、初めて見たそれを食わせてもらって「へ~え」と思った。
明石の親戚と長田に嫁いだ「姉ちゃんの家」でも同じものを作るのだと、そのとき聞いたが、自分の知る限り、少なくとも神戸の兵庫区以東、北区以北で、「作っている」という例は、当時では見たことがない。
先日、「ポートタワー」を「神戸タワー」と紹介するサイトがあって愕然とした。
「神戸タワー」は今は取り壊されてもうないが、、大正時代から昭和40年代まで、新開地にあったコンクリート造りの塔で、当時は「モダン神戸」の象徴だった。
自分は1956年生れだが、我々の世代が、「東の浅草、西の新開地」を、実体験として知っている、最後の世代だと思う。
元町・三宮は、買い物に行く街、新開地は、映画を見たり芝居を見たり、うまいものを食べたり(人によっては「H」方面も)、と遊びに行く街、という棲み分けがあった。
50年前の新開地本通りは、ことに年末ともなれば、人でごった返して身動きもとれなかった…のを、想像できるかな?
1970年代のことだが、神戸を舞台とした漫画で、「第二神明」を「第二名神」と誤記していて、抗議の葉書を送ったことがある。
「兵庫県三田市」に、「みたし」とルビを振っている雑誌もあった。
丹波から宝塚の方の高校に行って友達に 「○○ちゃん来ちゃった」と言ったら 「来たらあかんの?」と、 〜やりよった みたいな意味で伝わったこと。丹波の黒豆で丹波が伝わること。
明石の観光名所を聞かれても『明石海峡大橋』は言いづらい明石っ子。
『神戸ノート』は色を見るだけで教科がわかる。
県外と県内では『姫路』の発音が違うし、イメージも違う。
高校野球の中継でアナウンサーが大阪府代表校を指して「地元のチーム」と言うのに対して、心の中ではちゃうのになーと思いつつ、もはやヌル~く許している。
豊岡の測候所が無人となった今、神戸で出される兵庫北部の天気予報よりも、鳥取の天気予報の方が当たる気がしてる
なんかしらのアンケートで居住地を求められたとき、選択肢が「兵庫県」までしかないとモヤモヤする。別にそれで間違いないし、無理くり神戸市とまでは書かないんだけど。
高校生の時、友達のことを、おまんと呼んでいたら周りからいやらしい目で見られた。
JRが国鉄だったころ、中学校の修学旅行は「団体専用列車」が組まれ、3~4校まとめて利用していた。
何年か前だが、“丹波篠山の奥座敷”籠坊温泉で食べた牡丹鍋、猪肉の食感が「ぷりぷり」としていて絶品だった。
味噌と砂糖の味付けも絶妙だった。
あれから、他でも牡丹鍋を食べる機会があったが、あれ以上のものには、未だ出会ったことがない。
神戸市北区は電波障害地域がところどころにあり、通常のアンテナだと新聞のテレビ欄とはまったく関係のない放送局の番組しかはいらない。感度のいいラジオだとダイヤル選局の途中で、半島の放送や、佐世保米軍基地のFEN(現AFN)の放送が入ってくる。ということでしかたなくケーブル配信のサービスを受けている。
おでん,ひねぽん、なんでも姫路名物と言うのはおかしい、播州名物ちゃーうんけー.
「神戸ノート」だが、自分の知る限り、少なくとも60年以上前から存在した。
しかも、使用される写真は時代によって変遷しているが、基本デザインと科目別の「色」は、60年以上(70年以上、かも)にわたって、ずっと変わっていない。
あのノートが「神戸限定」だというのは、中学生になって初めて知った。
それまでは、全国どこでも、小学生はあのノートを使って…というか、全国どこでも地域ごとにノートがあるのだと思ってた。
「ジャポニカ学習帳」の登場は1970年だそうだが、それ以前、神戸以外の小学生は、どんなノートを使っていたのか、是非訊いてみたいが、知っている方はおられるでしょうか?