県公式・兵庫五国連邦プロジェクト

県公式・兵庫五国連邦プロジェクト
   

【勝手にエール|vol.005】“滋賀・近江商人”の生まれ故郷に、行ってきました。

兵庫県に五国あり。関西に2府3県あり(※兵庫県のぞく)。
兵庫五国が、それぞれ、関西5府県に
勝手にラブレターをしたためる。
そんなプロジェクト「勝手にエール!」の相手先を、
兵庫県広報官の湯川カナが訪れます。

文:湯川カナ(兵庫県広報官)
取材日:2020年11月5日

兵庫県の北側、中国山地と日本海に囲まれた地域を「但馬」という。「馬」という名前がついているけれど、有名なのは牛。実は世界的ブランド「神戸ビーフ」になるのは100%「但馬牛」、兵庫県内で生まれ育った黒毛和牛だ。

かつて日本の黒毛和牛は、絶滅の危機に陥った。明治時代に外国種との交配が一気に進められたせい。だけど交配は失敗。関係者が慌てて昔ながらの純血種を探したところ、日本でゆいいつ但馬の山の奥の奥に、4頭だけひっそりと生息していたことがわかった。これが但馬牛。

やがてその子孫として、肉質が良く繁殖力も強い雄牛「田尻号」が生まれる。そして現在、全国にいる黒毛和種の母牛の99.9%の祖先になった。いわば、<日本の黒毛和牛の祖は、但馬牛>。

いまも但馬では純血を守る子牛が育てられ、その後、全国のブランド牛産地に「肥育」のため送り出される。その一頭が、近江牛で有名な滋賀県高島市の牧場にいるというので、訪ねてみました。

【おじいちゃんおばあちゃんが、可愛い、可愛い、て】

高島市は、琵琶湖の西岸。わりと北側。キラキラ輝く穏やかな湖面に浮かぶ鳥居を見ながら車を走らせ、安曇川沿いに内陸に入り山にさしかかったところに、目指す牧場はあった。えらく風通しの良い牛舎に、どれも黒色の牛が並んでいる。ひとつの牛舎に50頭、ここには600頭くらいがいるという
……ん? あれ? 臭くない!

掃除をしていたスタッフの男性が「あ、よく言われるんです。うちはすごくきれいにしてるんで」と誇らしげに話す。隣の男性が「この牧場は後発だったんで、最新の建て方をしたんです。なので、よく見学も来られますよ。いまは県内にこのタイプの牛舎、だいぶ増えました」と続ける。この方が、牧場から小売まで近江牛を扱う「大吉商店」を経営する永谷武久さん。とーっても快活な方。

「知ってました? この”牛舎”って実は、日本独特の文化なんですよ。アメリカなんかは、基本的に放牧。日本では農耕牛として家で飼っとったでしょ、その伝統から来とるんですね」 なんと! たしかに九州の母からも、家で牛を飼っていたと聞いたことがあるし。なんだか、あったかーい気持ち。
「あ、今日は但馬牛でしたね。いま、ここ(の牧場)には6頭おります。えっと、あそこですわ」 どこ!?

指差された方を見るけれど、同じような黒い牛ばかり。「えっ、ぜんぜん違うでしょ!? ほら、ちっちゃいちっちゃい」

そう言われてみると、たしかに他よりもすこし小柄なような気もする牛が3頭ずつ、2つのブースに。いや、十分大きいし……。近寄ってもだいじょうぶ? 「ぜんぜん! もともと牛はおとなしい動物なんで。ほら、目をよう見たらね、子供みたいじゃないですか。それに但馬の牛は、ものすごい人になつきます。これ、但馬の特徴ですわ」

他の生産地と違い、但馬では「牧場」という規模感ではなく、いまでも農家が自宅で数頭の子牛を育てる伝統が残っているという。「家にずっと一緒におるんで、おじいちゃんおばあちゃんが、ものすごい可愛がるんですよ。それで懐くんですね。ほら、こうやって近寄ってくるでしょ?」 たしかに。くーんと寄せてきた目をのぞき込むと、まあ、なんてつぶらな瞳。

エサをあげさせてもらうことになった。両手いっぱいに抱えると、わ、草の匂い! 「良い匂いでしょ。これは近江米の稲ワラ。僕らは輸入は使わんですね。牛が嫌がりよるんですよ、たぶん消毒とかの臭いでしょう。やっぱり近江米のワラやと喜びよるんで」

エサ箱に、おそるおそる稲ワラを置いていく。6頭の但馬ちゃんたちが、仲良く並んで、小首をかしげながら上品に食べはじめた。「ほら、舌を使ってちょっとずつちょっとずつ食べるでしょ? 他の産地はガバガバ食べよるんですけどね。エサの食べ方がぜんぜん違うのも、大きな特徴ですわ。食べ残すのは、いつも但馬(笑)」

小さな但馬牛は、食も細い。牛には、稲ワラだけでなく、麦やフスマなどの飼料も与えるのだけど、それもガツガツ食べない。「九州なら二毛作できるけど、但馬は雪降るから、もともと飼料も貴重でしょ。牛があんまり食べへんかったら、おじいちゃんおばあちゃんがぐつぐつ炊いて柔らこうして、食べさすんですよ」 えー、それってもう「風邪引いた我が子にお粥さんつくる」レベルじゃん!

しかも但馬牛は、毛がストレートではなくカールするので、農家さんが毎日ブラッシングして、マッサージもしてあげるのだという。ワオ、なんて箱入り待遇! 「こんなん但馬だけですね。ほんまに、おじいちゃんおばあちゃんが、可愛い、可愛い、て。独特の文化です」

【但馬牛の「ドラマ」と「センチメンタル」を引き継ぐ】

「とにかく但馬は、牛を育てるスキルがぜんぜん違うので、この業界では伝説的な存在。僕なんて恐れ多くて、何年も、但馬に牛を買いになんて、よう行けなかったですわ」と永谷さん。やがて念願叶って但馬のセリに参加し、初めて牛を競り落として、また驚いた。購入した牛が運ばれてくる時、おじいちゃんおばあちゃんまでついてきたのだ。「僕らに『お兄ちゃんが、買うてくれはったん?』って言うてね。そんで、牛といろいろ喋ってはるんですよ。長いこと大事にしてはるから、寂しいんちゃうかな」

こうして故郷を後にした但馬牛は、一頭ずつ、真っ赤な首輪を提げて、全国の牧場へと旅立つ。永谷さんによると、これも他の産地では見られない、但馬だけの慣習なのだという。きっと、但馬のプライド。

「世間の人はお肉になってから会うからわからんと思うんですけど、実はそこまでにようけ、牛に関わる人のドラマがあるんです。生産農家さんのドラマがあり、僕たちは肥育のドラマがある。但馬はやっぱり歴史が違うので、関わる人のドラマがすごく濃い。せやからどうしても、僕らもそのセンチメンタルを引き継ぐところがありますね」

永谷武久さんは、ここ高島市の生まれ。もともと田舎が嫌で、家業を継ぐことなんて考えていなかった。不本意なかたちで若くして四代目社長となった武久さんの目に留まったのが、明治中期に店の前で撮られた、創業者・永谷大吉さんの白黒写真。
和装ながら、洋風の帽子をかぶり、化粧まわしをかけた立派な牛を曳いている。これが但馬牛なのだと聞かされた。足元が洋靴なのは、但馬の山奥からはるばる近江まで約200kmの道のりを歩いて連れてくるからだろうか。写真の中の曾祖父は、最高に誇らしげだ。

これが、強烈なインパクトだった。自分もいつか但馬牛を扱う。武久さんは、心に決めた。
正直言うと、近江牛を扱う事業者にとって但馬牛は「採算が合わない」。体が小さく、出荷まで時間がかかる。さらに食も細く、食べる物にも気を遣う。何より、関係者がプライドをかけて育んできた但馬牛を最高の状態に育て上げるのは、大変なスキルと情熱が必要となる。でも、だからこそ……武久さんは思った。自分は、そんな但馬牛を育て上げ、いつか高島から世界一の牛を世に出す。

事業を継いで数年後、武久さんは、一度はやめていた自社牧場を、新たに作った。それからずっと、牛の肥育について、思いつく限り学んで実践を繰り返している。

【あんなに嫌っていた田舎が、最高の環境に】

「ちょっと、おもしろいところ、寄っていきましょか」
永谷さんが案内してくれたのは、川沿いの平地にひろがる田んぼと、山にかかり斜面が現れる境目にある水汲み場。石段を下りると、透明な水がサアサア流れていた。
「秋葉の水いう湧き水ですわ、よかったら飲んでみてください」
上で待っている永谷さんから声がかかる。おそるおそる口に含むと、わあ、なんて清浄。ごくり。おお、「まろやかな水」って、こういうことなのか~。うん、美味しい!

「但馬に似てるんちゃうかなと思うんですよ、この景色」
永谷さんが、川の向こうを指さす。そこには遠く、緑の山。その手前にとうとうと流れる川(がある気配)。足元まで広がる田んぼ、永谷さんが立っているあぜ道。そしてこの湧き水を挟んで、目の前からまた山が始まる。山からは、涼しい風が降りてくる。冬には一面の雪景色になるという。
「牛も生き物なんで、故郷に近いのが、やっぱりええでしょ。但馬の牛には、ええ環境やと思うんですよね」
あんなに嫌っていた「田舎」が、但馬牛を最高の近江牛にするという夢を持った瞬間、理想の環境になった。

一説によると、琵琶湖の3分の1は高島市から流れ込んだ水でできているという。こんこんと湧き出る豊富で美味しい地下水。その水をふんだんに取り込んで育つ近江米。稲ワラまで美味しく、牛さんたちの大好物。そしてそんなご機嫌な牛の糞は、牧場でしっかり発酵させた後、堆肥として地域の米農家に返されている。その堆肥で近江米がより美味しく育ち……。

「ここ高島でしかできない農業を極めて、但馬牛を最高級品質の近江牛に育て上げます。たとえばいま日本では『さし至上主義』ですが、それでええんかなと思ってるところもあるんですね。近江牛は赤身が柔らかくて美味しいのが特徴。但馬の人たちが牛に込めた伝統と熱を受け継いで、ここから、これまでの概念を壊すような食文化をつくっていきたいと思てます」

【「近江商人」って、いないの!?】

近江牛は、秀吉の時代から飼育されていたといわれる。肉食が禁じられていた江戸時代にも、近江牛は、味噌漬けにして「反本丸」という”薬”として、江戸をふくめ広く食されていたらしい。こうして近江牛を”世界最古のブランド牛”として全国区にしたのは近江商人……「なんですよね?」
まさに「復刻版・反本丸」が並ぶ大吉商店ショーウィンドウ前で、wikipedia的ウンチクを伝えると、永谷さんから「そうです。ただ、ここの高島商人は、江戸じゃなくて京都と陸奥ですね。それで京都との縁で創業したのが高島屋で……」と思いがけない答えが。

高島商人? いや「近江商人」でしょ?
「あ、『近江商人』というのは外から見たときの言葉で、ここいらでは地域によって呼び名が違うんですわ」 えええー! 「近江商人」って、いないの!? いやいやいや、そんなわけないよね。あんな有名なんだよ? よし、近江商人を探すぞー!!

というわけで、私たちは但馬牛ちゃんたちが大切に育てられている高島市の大吉牧場を後にしました。
さて、近江商人を探すなら、どこだ? ひとまず、その名も「近江」がついている近江八幡で、どや!(←安直)。近江八幡市があるのは、琵琶湖東岸、やや南側。いま私たちがいる琵琶湖西岸北側の高島市から、地図で見ると琵琶湖を挟んで真南、直線距離で約25km。なんだ、近いじゃん! ……ではなく、私たちはモーゼみたいに海を割れないので、湖の西岸をぐるりと南下。途中、琵琶湖大橋でショートカットして東岸に渡っても、55kmほど。
なるほど、こりゃ水運って大事ね。

さて、1時間以上かかって到着したのは近江八幡の中心部。日牟礼八幡宮の駐車場に車を停め、橋の上に佇むと、目の前に広がるのは時代劇『鬼平犯科帳』のエンディングに出てくるような堀と柳、それに船頭さんと小舟。映画のセット!? いや、リアルなまちに、この景色。

看板に、近江八幡の歴史が書いてある。もともとはこのすぐ近く、約5km先に、織田信長が絶頂期に築いた安土城があった。だけど安土城は本能寺の変で明智光秀のものになり、さらにすぐ山崎の戦いによって主を失い、その数日後に謎の火災で焼け落ちる。豊臣秀次は、ここに新たに八幡山城を築き、琵琶湖から城へと船を引き入れる水路を整備した。それが、この八幡堀。

秀次が考えていたのは、安土と同じ「楽市楽座」による地域振興。当時、重い物を運ぶメインルートは「水路」。もともと都に近く、そして江戸時代には大阪・京都と江戸をつなぐ交通の要衝となった近江八幡は、一躍、商人の町として大発展を遂げたそう。ふむふむ。歴史はわかった。さて、どこに行けば、近江商人に会えるのだ!?

【いわば”近江商人”ネットワーク】

橋の先に、レトロな建物があった。洋風っぽい建築で、白壁に瓦屋根が輝いている。近寄ると、一画が観光案内所になっていた。
「すみません! 近江商人を探して来たんですが!」
一瞬気圧されながらも、にこやかに対応してくださったのは、近江八幡観光物産協会の田中宏樹さん。近江八幡生まれの近江八幡育ち、近江商人……ではないですね。

「ようこそ。このあたりは八幡商人の発祥の地でですね、」 いやいや、残す方は”八幡”じゃなくて”近江”で! 「すみません。『近江商人』というのは、いないんですよ」
落ち込む私を見て、田中さんは謝らなくてもいいのに琵琶湖のような心の広さで頭を下げ、穏やかに説明を続けてくれました。
「いわゆる『近江商人』は、おおまかに4つの地域に分かれるんです。ここ近江八幡は比較的初期から活躍していて、とくに江戸に幕府ができてから関東方面で活躍した商人が多い地域ですね。最初の商材は、カヤや畳表。その後は時代に応じて布団など……。寝具メーカーの西川って、ご存知ですか? ここが発祥なんですよ。すぐ近く、1500年代の中頃の築城時にお店を構えられたその場に、今も本宅があります」

えっ。1500年代中頃って、まさにこの地域で秀吉がまだ信長の家臣としてめっちゃ城攻めとかしてた頃!!

「それから100年ほど遅れて、別の地域からも商人が生まれてきます。日野商人ならお椀や薬。五個荘地域は繊維で、ワコール創業者ゆかりの地。こんなかんじでそれぞれ得意分野があり、縄張りというか商圏を分けながらしっかり情報交換をしてきました。いわば”近江商人”ネットワークをうまく使って共存共栄で活躍したんですね。明治になると、伊藤忠や丸紅などの商社も生まれます」

田中さん曰く、近江の一帯は、京と大阪という大消費地に近く、ユーザーのニーズがつかみやすい。だから”持続する”商売を続けられたのではないかという。ちなみに、この地で商人が大きな力を持っていた証拠に、琵琶湖畔には意外と大将軍がいなくて、むしろ自治都市が多いのも特徴だという。近江では、商人は自分たちで、まちをつくってきたのだ。

「せっかく来られたので、よろしければ少し、近くを案内しましょうか?」 あっ、そんなこと言って、最後になんか売りつけたりするのでは!? 私は商人に騙されないぞ! どこまでも琵琶湖のように柔らかな笑顔の田中さんを前に、心の中でそっと誓いつつ、まちを案内していただくことになりました。

【boys ならぬ a girl】

最初に向かったのは「ヴォーリズ」の銅像。
名前は、聞いたことがあった。神戸女学院大学や関西学院大学を手掛けた建築家。でも彼が、アメリカからやってきて最初に住んだ町が近江八幡で、ここに住み続け、ここで死んだとは知らなかった。

銅像ということは、きっと”Boys be ambitious!”的な、ちょっと腹の出た偉そうなおじさんの像がどこか指差したりしてるんだ……と思っていたけれど、目の前に現れたのは、細身で眼鏡の優しいおじさま。そしてboys
ならぬ a girl、ひとりの素朴なお嬢さんが、ヴォーリズに花を一輪、差し出している。
「ヴォーリズが近江八幡でどれほどみんなに愛されていたかというのを表しているんです」
柔らかな声で解説してくれる眼鏡姿の田中さん。なんだかヴォーリズっぽく見えてきた!

ウィリアム・メレル・ヴォーリズがアメリカからやってきたのは、1905(明治38)年。第二次大戦も経て83歳で亡くなるまで、様々な大学や教会や百貨店を建て、キリスト教を伝え、教壇に立ち、起業して経営し、学校を設立し、社会奉仕を軸に近江八幡のまちづくりを行った。そんな活動資金を得るためにつくったのが、「メンソレータム」を扱う近江兄弟社。銅像の向かいが、いまでも本社になっている。1階の「メンターム資料館」に、入ってみた。ん? メンターム?

パネルの年表によると、近江兄弟社はヴォーリズの死後に一度倒産し、メンソレータムの販売権を失った。そこから「メンターム」というオリジナル商品を出して復活を遂げたということらしいのだが、「実は倒産の理由とも言われているのがヴォーリズらしい会社経営で……」と、田中さんが教えてくれた。

「ヴォーリズは、社員に休みを取ることを徹底させたんですね。当時から残業なし、週休2日。1日は自分のために、1日は地域のためにと話していたそうです。教育も重視し、女子工員のための学校をつくり、また子どもの教育費用は会社が負担。そして社員の給料は、扶養家族の数で決めていたそうです」 なるほど。そら、つぶれるかもね……だって素敵すぎるもん!

「ヴォーリズは、『隣人愛に基づき、事業を通じて社会に奉仕する』というキリスト教の理念のもと、すべての人が平等で豊かな社会の実現をめざして、社会事業を次々と立ち上げました。そんなヴォーリズの理念に、きっと、どこよりも共感し、共に実現しようとしたのが、ここ近江八幡のひとたちだったのだと思います。だってヴォーリズが言っていること、やっていることは、近江商人の在り方そのものですから」

【善いことは忘れられるくらいが良い】

まちは、本当に映画のセットのよう。メンターム資料館を出て、八幡堀に降りたり、素敵な商家が残る街並みを抜けながらくるっとまわり、再び出発地のレトロな建物へ。白雲館というらしい。明治10年創立の小学校(当時の八幡東学校)。「当時、できたばかりの明治政府はお金がなかったので、この小学校は地元の商人がお金を出し合って作ったんですよ」 わ、ほんまに、みんなヴォーリズやん! いったいどんな大商人が寄付を……?

「まちのいろんな人が、ですね。実は「誰が」という記念碑みたいなのはないんです。近江商人には『陰徳善事』といって、『善いことは、人知れずやりましょう』という教えがあるんですよ。ほら、名前が出ると、だいたいその子どもが得意になって嫌味な人間になりがちじゃないですか(笑) それは結局、その家のためによくない。だから寄付など善いことは忘れられるくらいが良い、と言うんですね」
えっ、ウソやん。商人ってガツガツしてるんちゃうの?
「そう思うでしょう? でも物産展を見ていても、近江商人は地味で、売り込みも下手。観光協会が出すパンフレットに掲載するときも、みんな目立つ良い位置を譲り合うので大変なんですよ(笑)」

田中さんと、白雲館の階段を上がる。学校らしい質素なつくりの中に、美しいステンドグラスや、手の込んだ窓枠の造作があって、目を奪われる。もうすぐ150年が経つのに、一部は当時のままだとか。
「”安物買いの銭失い”の逆で、良いものを、何代もわたって、しっかり使い続ける。近江の人は、今でもそういうところがあります。それも、近江商人として受け継がれている生き方かもしれません」

古くから教育を大切にしてきた、近江商人。「商家を守る女性もしっかり教育を受けるべき」という考えもあり、その証拠に、この小学校では、全国的に小学校の女子就学率が男子の半分にも至らなかった明治初期、すでに女子生徒の方が多かったことが記録に残っている。

「近江商人は、一時的に儲けることを重視しないんですね。なぜなら、商売は自分の力でしているのではなく、先祖代々つないできた信頼でさせていただいているから。会社が倒産するのって、結局、粉飾とかずるいことをしたり、あるいは親子や兄弟での諍いが原因だったりするじゃないですか。なので『商売は、細くとも長く続くことが大切』と考えます」
おお、真面目。大真面目。

「それで近江商人は、何よりも信用や信頼を重視するんですね。そのためには、地味ではありますが、昔から言われていることを誠実に続けるのがいちばんだと考えます。それが、良く知られている『陰徳善事』であり『質素倹約』であり『三方よし』です。
 僕も家や学校でそう習いましたし、僕の子供たちも、いま学校で習っていますよ」

なんかぜんぜん思ってたのと違った、近江商人。もちろん案内が終わっても、田中さんは私に何かを売りつけることはなく、別れ際にこう教えてくれた。
「ご説明したように、厳密に言うと、『近江商人』は存在しません。これは外の人や世間が言うもので、自分たちから『私は近江商人です』と言うことは決してないんですね。でも、そう呼ばれることに、自信と誇りはあります」

現代に生きるヴォーリズ・田中さんの眼鏡の奥の瞳が、強く輝いた。地域のひとたちが自らまちをつくり、次世代を育成し、ヴォーリズのような”外”の人も魅了してともに歴史を築いてきた近江八幡。これからもきっと、誠実で誇り高い「近江商人」を生み続ける町であり続けるのだろう。

いたよ、近江商人。そしてきっとこれからも存在する。この地に、「近江商人という誇りをもって生きる」ひとたちがいる限り。

【複雑に交錯する、兵庫県と滋賀県の歴史】

かつて明治時代、日本中が輸入牛に湧いて伝統を捨てたとき、但馬では家族同様に育ててきたからこそ奇跡的に純血和牛を残すことができた。その文化はいまも引き継がれ、日本最高の仔牛を育成し続けている。そしてその「価値」をしっかりわかってくれる近江の方が、さらに手間をかけ最高の近江牛に仕上げて、全国に、世界に、届けてくださる。そこには生産者のドラマを引継ぐ誠実さと、新たにこれまでの概念を変える食文化をつくる情熱、そして社会全体への善という広い視野がある。おそらくそれが近江、なのだ。

そして、今回の旅で、新発見がもうひとつ。
ヴォーリズの奥様はなんと兵庫県出身、元小野藩主のお嬢様だった。実はこの一柳満喜子氏が、アメリカ留学中に女性教育学者から学びを得て、近江八幡で幼児教育「プレイグラウンド」を始め(大正時代すでにこの名前とは!)、近江兄弟社学園の学園長もつとめたという。いわば「経営ができる教育者」。そんな彼女の出身地・小野市は、まさに、そろばんの生産量日本一のまちなのだ。

さらに歴史を遡る。そもそも小野市にそろばんの技術が伝わったのは、1500年代後半に秀吉が播州三木城を攻めた時。小野の住民が琵琶湖畔の大津に避難して、近江商人が使っていたそろばんの作り方を学んで帰ってきたのがきっかけだという。大津なくして小野なく、小野なくしてヴォーリズ夫妻の近江八幡なく、近江商人なくして和牛文化の進展なく、和牛を食べる文化なくして但馬の高い価値は評価されず……。兵庫県と滋賀県の歴史、なんと複雑に交錯しているのだ!

近江八幡取材の終わり、私は白雲館の1階に戻りました。取材中にチラと見ていた掘り出し物市のコーナーが、どうしても気になって。さすが伝統ある商人のまちらしい、趣のある壺やお皿が並ぶなか、古い黒塗りのお椀が光っていました。どこのかわからないけど家紋入りで、800円。

九州出身で外国生活が長かった私はいわばヴォーリズみたいに「外から来た人」なのだけど、この、複雑に豊かに絡み合いながら歴史と現在を作っていく関西のストーリーの端っこにちょこっと参加してみたくなって、お椀を買ってみました。

但馬と滋賀は、ルーツがすごい。そして、だからこそ、「いま」もすごかった。

こうして兵庫五国から勝手に押しかけさせていただいた関西5地域、どこも本当にすごかったです。こうして歴史をもち、いまを誇り高く生きる関西のみなさんと一緒にいられることがすごく嬉しくなった、「勝手にエール」全5回の旅でした!


ポスター掲示希望施設を受け付けます!

U5H(兵庫五国連邦)は、たくさんの方に、「あるある」でふるさとを語り合っていただくきっかけをつくるプロジェクトです。
学校や職場、喫茶店や居酒屋、商店街、公民館、いろんな商店……。
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