「青木」「大沢」「宅原」、簡単に読めそうなのに実は難読地名、というこの三つは、いずれも神戸市内にある。 それぞれ、「おうぎ」「おおぞう」「えいばら」と読む。
播磨の山奥(宍粟、佐用方面)では、カメムシのことを「がいざ」と言いますが、市外でがいざはカメムシを指すことを説明すると、何かのキャラクターを想像され、「かっこいい」と返ってきます。
奈良県在住の石川県民です。この前奈良県民の友人とドライブした後、明石焼きを食べようとして店員に「明石焼き2パックください。」と言ったら店員が「ちゃうぞボケェ明石焼きとちゃうぞゴラァ!!」とキレて結構ビビりました。
福知山線の柏原駅を、「かいばら」と正しく読める日本人の割合は、ごくごく少ないと思う。 兵庫県人でも、正しい読みを知ってる人はあまり多くない、と思う。 知人が住んでいるのですが、「丹波市貝原町」と書いてくる年賀状が、たまにあるそうです。
大阪の淡路の名物として「しおまんじゅう」があるのも、道真公が間違ったのが由縁と言われています。
地元の方には顰蹙かも…なのだけど、神戸・阪神人がイメージする「播磨」は、明石、加古川、高砂、姫路と…あ、相生と龍野、赤穂もあるね、だ。 三木、小野、西脇と言われると、「あ、そう言えば」と気づくのだが、加東、加西、宍粟、佐用…とこられると、もはや位置もイメージも茫洋のままだ。
産まれたときから明石に住んでます 子供の頃によく聞いた方言です。 兵庫神戸の「なんぞいや」 八木の「そらまた」 藤江の「は~ま」 囃子言葉みたいに口ずさんでました。誰か覚えてませんか?
飾磨高校を「亀高」と呼ぶ。由来は知らない。
姫路東高校が夜になると姫路北高校に化ける
昔の映画館って「二本立て」「三本立て」が当たり前でしたよネ?! そんな言葉さえ今の人は知らないかなぁ? 映画好きだった私は、3館はしごして、三本立て+二本立て+二本立て=7本、1日で観たことがあります。
神戸や阪神間の飲み屋で、「俺は、惜しくも1回戦で負けてしもたけど、甲子園で2打数1安打、リリーフでマウンドにも上がったんや」と自慢するおっちゃんの話を、よくよく聞くと、兵庫県予選の話だったりする。 本大会の選手権に「コールド負け」は、あり得ない。
尼崎の謎の洋館(広い庭付き) 謎でもなんでもないんですけど、阪神尼崎駅から南下して国道43号を大阪方面に少し行ったところに、絵に描いたような広い庭付きの洋館を偶然見つけ、「なんじゃこりゃ!」と驚きました。「ユニチカ記念館」というもので、尼崎市が取得するそうです。
東京から我が家を訪ねてくる人に、「新大阪からJR神戸線で大阪へ出て、梅田から阪神に乗って」と教えた。 やって来たその人は、「新幹線の乗換案内で、JR神戸線なんてひと言も言わないので、不安になった」と言っていた。 JR東海の案内は、今も「東海道線」らしい。
そう言えば、神戸駅が、東海道本線の終点で、山陽本線の起点駅だ、てのは、割と忘れられがち。 それも、つい最近のことではなく、国鉄時代から、東海道線の終点は大阪で、山陽線の起点も大阪だ、と思い込んでる人は、かなり多くいた。
南野陽子「春景色」の歌詞にもある、六甲学院の「紺色の詰襟」。 これは、昭和戦前、全国的に軍国色が強まったころ、カトリック系の学校は国から迫害を受ける恐れがあったので、帝国海軍の軍服を模した制服を制定し、「海軍と同じですよ。軍国教育してますよ」と偽装(?)した名残、らしい。
夏場、神戸からの帰り、甲子園駅から乗り込んでくる乗客の表情で、「あ、今日は勝ったな」あるいは「負けたか…」と、おおよその想像がつく。 在宅時も、我が家は甲子園球場から直線で約2キロなので、中継を見てなくても「六甲おろし」が聞こえて来るか来ないか、で判断が可能だ。
真冬の播但線は、和田山〜寺前発の車両がとんでもない量の雪を積んでやってきます。 でも姫路駅に着く頃にはほとんど溶けてます。
出身校のOBに、渡哲也、渡瀬恒彦の兄弟がいて、数々の「伝説」を残していた。 自分が在学していた50と数年前、野球部がセンバツに出場したのだが、この時には、甲子園のスタンドに渡哲也の姿があったらしい。
湯村温泉を舞台とした吉永小百合主演のドラマ『夢千代日記』は、現地に銅像も建ってるし有名なのだけど、これに松田優作も出演してた、というのは、結構なトリビアだったりする。 樹木希林や緑魔子とかあがた森魚とか片桐夕子、等々、かなり“濃い”人たちも主演してた。
元町「蛸の壺」は、日本で初めて、たこ焼きを“酒のあて”にしたお店…かもしれない。 満州育ちの初代から伝わる「小餅(シャオピン)」「大餅(ターピン)」や水餃子も、美味しいです。
芸能人の出身地を聞いて、兵庫県出身の人より鳥取県出身の人の方が身近に感じる。関西弁の兵庫県出身者は他県のイメージなのです。
1960年代の日活アクション映画には、当時の神戸でロケされた作品が多い。石原裕次郎や渡哲也が、’60sの神戸の街や港を走り回ってます。 1970年代の神戸は『風の歌を聴け』に、80年代なら『べっぴんの町』に、震災前の姿がよく残されています。
北区にいた頃のある正月、徒歩で有馬に抜けて温泉へでもと、うろ覚えの登山道を目指した。 山に入ると結構な雪が積もっていて、ついに道を失った。マジで救助要請しようかと思ったら、携帯を持ってなかった。 なんとか元の道に辿り着き無事帰れたが、六甲山をなめるとえらい目に遭います。
姫路は新快速、普通、特急はあるけど、快速はない
地域によって少しずつ祭りのしかたが違う(よーいやさーとは言うけど太鼓のリズムや ブイ指しが違うかったり)
“北野の異人館街”が観光地化されたのは、1977年のNHK朝ドラ『風見鶏』放映後のことだったと思います。 ドラマで「異人館」がにわかに全国区になったのだけど、それ以前の北野は、異人館よりも“ラブホ街”として有名で、観光地になって後、廃業したホテルも何軒かあったと記憶する。
有馬ます池…小学生のころですが、一家5人で行って、父親と自分、弟の3人で挑戦したのに、誰も1尾も釣り上げることができず、帰りの電車では、皆が無言なのでした。
神戸市西区伊川谷町別府、旧神明沿いにある「長崎ちゃんぽん・淀川」は、知る人ぞ知る有名店。 店はボロだが、美味しいとファンも多い店。 かなりボロくてバラックにしか見えない外見だが、阪神大震災時、すぐ横の新幹線高架は崩れ落ちていたのに、この店は、倒れもせずに無事なのでした。
ボケ神、ダボ八、が分かるのは1960年代生まれの兵庫人
芦有ドライブウェイを初めて使ったのは、1985年。 きれいで走りやすく、便利な道なのに、なんでこんなに空いてんだろう? と思ったが、料金を払う段になって「なるほど…」と納得した。
「青木」「大沢」「宅原」、簡単に読めそうなのに実は難読地名、というこの三つは、いずれも神戸市内にある。
それぞれ、「おうぎ」「おおぞう」「えいばら」と読む。
播磨の山奥(宍粟、佐用方面)では、カメムシのことを「がいざ」と言いますが、市外でがいざはカメムシを指すことを説明すると、何かのキャラクターを想像され、「かっこいい」と返ってきます。
奈良県在住の石川県民です。この前奈良県民の友人とドライブした後、明石焼きを食べようとして店員に「明石焼き2パックください。」と言ったら店員が「ちゃうぞボケェ明石焼きとちゃうぞゴラァ!!」とキレて結構ビビりました。
福知山線の柏原駅を、「かいばら」と正しく読める日本人の割合は、ごくごく少ないと思う。
兵庫県人でも、正しい読みを知ってる人はあまり多くない、と思う。
知人が住んでいるのですが、「丹波市貝原町」と書いてくる年賀状が、たまにあるそうです。
大阪の淡路の名物として「しおまんじゅう」があるのも、道真公が間違ったのが由縁と言われています。
地元の方には顰蹙かも…なのだけど、神戸・阪神人がイメージする「播磨」は、明石、加古川、高砂、姫路と…あ、相生と龍野、赤穂もあるね、だ。
三木、小野、西脇と言われると、「あ、そう言えば」と気づくのだが、加東、加西、宍粟、佐用…とこられると、もはや位置もイメージも茫洋のままだ。
産まれたときから明石に住んでます
子供の頃によく聞いた方言です。
兵庫神戸の「なんぞいや」
八木の「そらまた」
藤江の「は~ま」
囃子言葉みたいに口ずさんでました。誰か覚えてませんか?
飾磨高校を「亀高」と呼ぶ。由来は知らない。
姫路東高校が夜になると姫路北高校に化ける
昔の映画館って「二本立て」「三本立て」が当たり前でしたよネ?!
そんな言葉さえ今の人は知らないかなぁ? 映画好きだった私は、3館はしごして、三本立て+二本立て+二本立て=7本、1日で観たことがあります。
神戸や阪神間の飲み屋で、「俺は、惜しくも1回戦で負けてしもたけど、甲子園で2打数1安打、リリーフでマウンドにも上がったんや」と自慢するおっちゃんの話を、よくよく聞くと、兵庫県予選の話だったりする。
本大会の選手権に「コールド負け」は、あり得ない。
尼崎の謎の洋館(広い庭付き)
謎でもなんでもないんですけど、阪神尼崎駅から南下して国道43号を大阪方面に少し行ったところに、絵に描いたような広い庭付きの洋館を偶然見つけ、「なんじゃこりゃ!」と驚きました。「ユニチカ記念館」というもので、尼崎市が取得するそうです。
東京から我が家を訪ねてくる人に、「新大阪からJR神戸線で大阪へ出て、梅田から阪神に乗って」と教えた。
やって来たその人は、「新幹線の乗換案内で、JR神戸線なんてひと言も言わないので、不安になった」と言っていた。
JR東海の案内は、今も「東海道線」らしい。
そう言えば、神戸駅が、東海道本線の終点で、山陽本線の起点駅だ、てのは、割と忘れられがち。
それも、つい最近のことではなく、国鉄時代から、東海道線の終点は大阪で、山陽線の起点も大阪だ、と思い込んでる人は、かなり多くいた。
南野陽子「春景色」の歌詞にもある、六甲学院の「紺色の詰襟」。
これは、昭和戦前、全国的に軍国色が強まったころ、カトリック系の学校は国から迫害を受ける恐れがあったので、帝国海軍の軍服を模した制服を制定し、「海軍と同じですよ。軍国教育してますよ」と偽装(?)した名残、らしい。
夏場、神戸からの帰り、甲子園駅から乗り込んでくる乗客の表情で、「あ、今日は勝ったな」あるいは「負けたか…」と、おおよその想像がつく。
在宅時も、我が家は甲子園球場から直線で約2キロなので、中継を見てなくても「六甲おろし」が聞こえて来るか来ないか、で判断が可能だ。
真冬の播但線は、和田山〜寺前発の車両がとんでもない量の雪を積んでやってきます。
でも姫路駅に着く頃にはほとんど溶けてます。
出身校のOBに、渡哲也、渡瀬恒彦の兄弟がいて、数々の「伝説」を残していた。
自分が在学していた50と数年前、野球部がセンバツに出場したのだが、この時には、甲子園のスタンドに渡哲也の姿があったらしい。
湯村温泉を舞台とした吉永小百合主演のドラマ『夢千代日記』は、現地に銅像も建ってるし有名なのだけど、これに松田優作も出演してた、というのは、結構なトリビアだったりする。
樹木希林や緑魔子とかあがた森魚とか片桐夕子、等々、かなり“濃い”人たちも主演してた。
元町「蛸の壺」は、日本で初めて、たこ焼きを“酒のあて”にしたお店…かもしれない。
満州育ちの初代から伝わる「小餅(シャオピン)」「大餅(ターピン)」や水餃子も、美味しいです。
芸能人の出身地を聞いて、兵庫県出身の人より鳥取県出身の人の方が身近に感じる。関西弁の兵庫県出身者は他県のイメージなのです。
1960年代の日活アクション映画には、当時の神戸でロケされた作品が多い。石原裕次郎や渡哲也が、’60sの神戸の街や港を走り回ってます。
1970年代の神戸は『風の歌を聴け』に、80年代なら『べっぴんの町』に、震災前の姿がよく残されています。
北区にいた頃のある正月、徒歩で有馬に抜けて温泉へでもと、うろ覚えの登山道を目指した。
山に入ると結構な雪が積もっていて、ついに道を失った。マジで救助要請しようかと思ったら、携帯を持ってなかった。
なんとか元の道に辿り着き無事帰れたが、六甲山をなめるとえらい目に遭います。
姫路は新快速、普通、特急はあるけど、快速はない
地域によって少しずつ祭りのしかたが違う(よーいやさーとは言うけど太鼓のリズムや
ブイ指しが違うかったり)
“北野の異人館街”が観光地化されたのは、1977年のNHK朝ドラ『風見鶏』放映後のことだったと思います。
ドラマで「異人館」がにわかに全国区になったのだけど、それ以前の北野は、異人館よりも“ラブホ街”として有名で、観光地になって後、廃業したホテルも何軒かあったと記憶する。
有馬ます池…小学生のころですが、一家5人で行って、父親と自分、弟の3人で挑戦したのに、誰も1尾も釣り上げることができず、帰りの電車では、皆が無言なのでした。
神戸市西区伊川谷町別府、旧神明沿いにある「長崎ちゃんぽん・淀川」は、知る人ぞ知る有名店。
店はボロだが、美味しいとファンも多い店。
かなりボロくてバラックにしか見えない外見だが、阪神大震災時、すぐ横の新幹線高架は崩れ落ちていたのに、この店は、倒れもせずに無事なのでした。
ボケ神、ダボ八、が分かるのは1960年代生まれの兵庫人
芦有ドライブウェイを初めて使ったのは、1985年。
きれいで走りやすく、便利な道なのに、なんでこんなに空いてんだろう? と思ったが、料金を払う段になって「なるほど…」と納得した。