産まれたときから明石に住んでます 子供の頃によく聞いた方言です。 兵庫神戸の「なんぞいや」 八木の「そらまた」 藤江の「は~ま」 囃子言葉みたいに口ずさんでました。誰か覚えてませんか?
飾磨高校を「亀高」と呼ぶ。由来は知らない。
姫路東高校が夜になると姫路北高校に化ける
昔の映画館って「二本立て」「三本立て」が当たり前でしたよネ?! そんな言葉さえ今の人は知らないかなぁ? 映画好きだった私は、3館はしごして、三本立て+二本立て+二本立て=7本、1日で観たことがあります。
神戸や阪神間の飲み屋で、「俺は、惜しくも1回戦で負けてしもたけど、甲子園で2打数1安打、リリーフでマウンドにも上がったんや」と自慢するおっちゃんの話を、よくよく聞くと、兵庫県予選の話だったりする。 本大会の選手権に「コールド負け」は、あり得ない。
尼崎の謎の洋館(広い庭付き) 謎でもなんでもないんですけど、阪神尼崎駅から南下して国道43号を大阪方面に少し行ったところに、絵に描いたような広い庭付きの洋館を偶然見つけ、「なんじゃこりゃ!」と驚きました。「ユニチカ記念館」というもので、尼崎市が取得するそうです。
東京から我が家を訪ねてくる人に、「新大阪からJR神戸線で大阪へ出て、梅田から阪神に乗って」と教えた。 やって来たその人は、「新幹線の乗換案内で、JR神戸線なんてひと言も言わないので、不安になった」と言っていた。 JR東海の案内は、今も「東海道線」らしい。
そう言えば、神戸駅が、東海道本線の終点で、山陽本線の起点駅だ、てのは、割と忘れられがち。 それも、つい最近のことではなく、国鉄時代から、東海道線の終点は大阪で、山陽線の起点も大阪だ、と思い込んでる人は、かなり多くいた。
南野陽子「春景色」の歌詞にもある、六甲学院の「紺色の詰襟」。 これは、昭和戦前、全国的に軍国色が強まったころ、カトリック系の学校は国から迫害を受ける恐れがあったので、帝国海軍の軍服を模した制服を制定し、「海軍と同じですよ。軍国教育してますよ」と偽装(?)した名残、らしい。
夏場、神戸からの帰り、甲子園駅から乗り込んでくる乗客の表情で、「あ、今日は勝ったな」あるいは「負けたか…」と、おおよその想像がつく。 在宅時も、我が家は甲子園球場から直線で約2キロなので、中継を見てなくても「六甲おろし」が聞こえて来るか来ないか、で判断が可能だ。
真冬の播但線は、和田山〜寺前発の車両がとんでもない量の雪を積んでやってきます。 でも姫路駅に着く頃にはほとんど溶けてます。
出身校のOBに、渡哲也、渡瀬恒彦の兄弟がいて、数々の「伝説」を残していた。 自分が在学していた50と数年前、野球部がセンバツに出場したのだが、この時には、甲子園のスタンドに渡哲也の姿があったらしい。
湯村温泉を舞台とした吉永小百合主演のドラマ『夢千代日記』は、現地に銅像も建ってるし有名なのだけど、これに松田優作も出演してた、というのは、結構なトリビアだったりする。 樹木希林や緑魔子とかあがた森魚とか片桐夕子、等々、かなり“濃い”人たちも主演してた。
元町「蛸の壺」は、日本で初めて、たこ焼きを“酒のあて”にしたお店…かもしれない。 満州育ちの初代から伝わる「小餅(シャオピン)」「大餅(ターピン)」や水餃子も、美味しいです。
芸能人の出身地を聞いて、兵庫県出身の人より鳥取県出身の人の方が身近に感じる。関西弁の兵庫県出身者は他県のイメージなのです。
1960年代の日活アクション映画には、当時の神戸でロケされた作品が多い。石原裕次郎や渡哲也が、’60sの神戸の街や港を走り回ってます。 1970年代の神戸は『風の歌を聴け』に、80年代なら『べっぴんの町』に、震災前の姿がよく残されています。
北区にいた頃のある正月、徒歩で有馬に抜けて温泉へでもと、うろ覚えの登山道を目指した。 山に入ると結構な雪が積もっていて、ついに道を失った。マジで救助要請しようかと思ったら、携帯を持ってなかった。 なんとか元の道に辿り着き無事帰れたが、六甲山をなめるとえらい目に遭います。
姫路は新快速、普通、特急はあるけど、快速はない
地域によって少しずつ祭りのしかたが違う(よーいやさーとは言うけど太鼓のリズムや ブイ指しが違うかったり)
“北野の異人館街”が観光地化されたのは、1977年のNHK朝ドラ『風見鶏』放映後のことだったと思います。 ドラマで「異人館」がにわかに全国区になったのだけど、それ以前の北野は、異人館よりも“ラブホ街”として有名で、観光地になって後、廃業したホテルも何軒かあったと記憶する。
有馬ます池…小学生のころですが、一家5人で行って、父親と自分、弟の3人で挑戦したのに、誰も1尾も釣り上げることができず、帰りの電車では、皆が無言なのでした。
神戸市西区伊川谷町別府、旧神明沿いにある「長崎ちゃんぽん・淀川」は、知る人ぞ知る有名店。 店はボロだが、美味しいとファンも多い店。 かなりボロくてバラックにしか見えない外見だが、阪神大震災時、すぐ横の新幹線高架は崩れ落ちていたのに、この店は、倒れもせずに無事なのでした。
ボケ神、ダボ八、が分かるのは1960年代生まれの兵庫人
芦有ドライブウェイを初めて使ったのは、1985年。 きれいで走りやすく、便利な道なのに、なんでこんなに空いてんだろう? と思ったが、料金を払う段になって「なるほど…」と納得した。
今東光『悪太郎』は、関西学院を退学になり、豊岡の中学校に転校した後の破天荒を描く著者自身の自伝的小説。 1963年、鈴木清順によって映画化。物語の設定年代は昭和戦前だけど、豊岡の町や円山川でロケされていて、60年代当時の様子をよく伝えています。
花隈公園まえ東側高架沿い山側に 蓋が締まらないくらい入ってるから揚げが入ってるのが名物の「美味しんぼ弁当味一番」ってお弁当屋さんがありまして、美味しくてお弁当だけじゃなく晩ごはんのお惣菜代わりに買って帰ったりしたんですが覚えてらっしゃる方いらっしゃいますか?
野坂昭如原作のアニメ『火垂るの墓』の冒頭、「清太」が凭れたまま死んでいた三ノ宮駅中央コンコースの円柱は、下部こそ四角くパネルで覆われていますが、今も当時の姿をとどめています。 同じ三ノ宮駅の、フラワーロードを跨ぐガードには、艦載機による機銃掃射の弾痕が、今も残っています。
春には、別府海岸で潮干狩り。 秋には、明石公園の菊人形展。 小学校時代に…って、50年以上前だけど、遠足で何度も行った。 なので、今でも山陽電車に乗ると、「遠足気分」になってしまう。 須磨を過ぎ、海が見えると、気分はもうすっかり「遠足」だ。
祭りの時は、 大人はカニ。 子どもはシャコ。
昭和50年前後生まれの姫路人は、 ほぼ全員、 「姫路っ子5つの約束」のというフレーズを知っている。 ただし、その5つが何やったかを知る子は少ない。
産まれたときから明石に住んでます
子供の頃によく聞いた方言です。
兵庫神戸の「なんぞいや」
八木の「そらまた」
藤江の「は~ま」
囃子言葉みたいに口ずさんでました。誰か覚えてませんか?
飾磨高校を「亀高」と呼ぶ。由来は知らない。
姫路東高校が夜になると姫路北高校に化ける
昔の映画館って「二本立て」「三本立て」が当たり前でしたよネ?!
そんな言葉さえ今の人は知らないかなぁ? 映画好きだった私は、3館はしごして、三本立て+二本立て+二本立て=7本、1日で観たことがあります。
神戸や阪神間の飲み屋で、「俺は、惜しくも1回戦で負けてしもたけど、甲子園で2打数1安打、リリーフでマウンドにも上がったんや」と自慢するおっちゃんの話を、よくよく聞くと、兵庫県予選の話だったりする。
本大会の選手権に「コールド負け」は、あり得ない。
尼崎の謎の洋館(広い庭付き)
謎でもなんでもないんですけど、阪神尼崎駅から南下して国道43号を大阪方面に少し行ったところに、絵に描いたような広い庭付きの洋館を偶然見つけ、「なんじゃこりゃ!」と驚きました。「ユニチカ記念館」というもので、尼崎市が取得するそうです。
東京から我が家を訪ねてくる人に、「新大阪からJR神戸線で大阪へ出て、梅田から阪神に乗って」と教えた。
やって来たその人は、「新幹線の乗換案内で、JR神戸線なんてひと言も言わないので、不安になった」と言っていた。
JR東海の案内は、今も「東海道線」らしい。
そう言えば、神戸駅が、東海道本線の終点で、山陽本線の起点駅だ、てのは、割と忘れられがち。
それも、つい最近のことではなく、国鉄時代から、東海道線の終点は大阪で、山陽線の起点も大阪だ、と思い込んでる人は、かなり多くいた。
南野陽子「春景色」の歌詞にもある、六甲学院の「紺色の詰襟」。
これは、昭和戦前、全国的に軍国色が強まったころ、カトリック系の学校は国から迫害を受ける恐れがあったので、帝国海軍の軍服を模した制服を制定し、「海軍と同じですよ。軍国教育してますよ」と偽装(?)した名残、らしい。
夏場、神戸からの帰り、甲子園駅から乗り込んでくる乗客の表情で、「あ、今日は勝ったな」あるいは「負けたか…」と、おおよその想像がつく。
在宅時も、我が家は甲子園球場から直線で約2キロなので、中継を見てなくても「六甲おろし」が聞こえて来るか来ないか、で判断が可能だ。
真冬の播但線は、和田山〜寺前発の車両がとんでもない量の雪を積んでやってきます。
でも姫路駅に着く頃にはほとんど溶けてます。
出身校のOBに、渡哲也、渡瀬恒彦の兄弟がいて、数々の「伝説」を残していた。
自分が在学していた50と数年前、野球部がセンバツに出場したのだが、この時には、甲子園のスタンドに渡哲也の姿があったらしい。
湯村温泉を舞台とした吉永小百合主演のドラマ『夢千代日記』は、現地に銅像も建ってるし有名なのだけど、これに松田優作も出演してた、というのは、結構なトリビアだったりする。
樹木希林や緑魔子とかあがた森魚とか片桐夕子、等々、かなり“濃い”人たちも主演してた。
元町「蛸の壺」は、日本で初めて、たこ焼きを“酒のあて”にしたお店…かもしれない。
満州育ちの初代から伝わる「小餅(シャオピン)」「大餅(ターピン)」や水餃子も、美味しいです。
芸能人の出身地を聞いて、兵庫県出身の人より鳥取県出身の人の方が身近に感じる。関西弁の兵庫県出身者は他県のイメージなのです。
1960年代の日活アクション映画には、当時の神戸でロケされた作品が多い。石原裕次郎や渡哲也が、’60sの神戸の街や港を走り回ってます。
1970年代の神戸は『風の歌を聴け』に、80年代なら『べっぴんの町』に、震災前の姿がよく残されています。
北区にいた頃のある正月、徒歩で有馬に抜けて温泉へでもと、うろ覚えの登山道を目指した。
山に入ると結構な雪が積もっていて、ついに道を失った。マジで救助要請しようかと思ったら、携帯を持ってなかった。
なんとか元の道に辿り着き無事帰れたが、六甲山をなめるとえらい目に遭います。
姫路は新快速、普通、特急はあるけど、快速はない
地域によって少しずつ祭りのしかたが違う(よーいやさーとは言うけど太鼓のリズムや
ブイ指しが違うかったり)
“北野の異人館街”が観光地化されたのは、1977年のNHK朝ドラ『風見鶏』放映後のことだったと思います。
ドラマで「異人館」がにわかに全国区になったのだけど、それ以前の北野は、異人館よりも“ラブホ街”として有名で、観光地になって後、廃業したホテルも何軒かあったと記憶する。
有馬ます池…小学生のころですが、一家5人で行って、父親と自分、弟の3人で挑戦したのに、誰も1尾も釣り上げることができず、帰りの電車では、皆が無言なのでした。
神戸市西区伊川谷町別府、旧神明沿いにある「長崎ちゃんぽん・淀川」は、知る人ぞ知る有名店。
店はボロだが、美味しいとファンも多い店。
かなりボロくてバラックにしか見えない外見だが、阪神大震災時、すぐ横の新幹線高架は崩れ落ちていたのに、この店は、倒れもせずに無事なのでした。
ボケ神、ダボ八、が分かるのは1960年代生まれの兵庫人
芦有ドライブウェイを初めて使ったのは、1985年。
きれいで走りやすく、便利な道なのに、なんでこんなに空いてんだろう? と思ったが、料金を払う段になって「なるほど…」と納得した。
今東光『悪太郎』は、関西学院を退学になり、豊岡の中学校に転校した後の破天荒を描く著者自身の自伝的小説。
1963年、鈴木清順によって映画化。物語の設定年代は昭和戦前だけど、豊岡の町や円山川でロケされていて、60年代当時の様子をよく伝えています。
花隈公園まえ東側高架沿い山側に
蓋が締まらないくらい入ってるから揚げが入ってるのが名物の「美味しんぼ弁当味一番」ってお弁当屋さんがありまして、美味しくてお弁当だけじゃなく晩ごはんのお惣菜代わりに買って帰ったりしたんですが覚えてらっしゃる方いらっしゃいますか?
野坂昭如原作のアニメ『火垂るの墓』の冒頭、「清太」が凭れたまま死んでいた三ノ宮駅中央コンコースの円柱は、下部こそ四角くパネルで覆われていますが、今も当時の姿をとどめています。
同じ三ノ宮駅の、フラワーロードを跨ぐガードには、艦載機による機銃掃射の弾痕が、今も残っています。
春には、別府海岸で潮干狩り。
秋には、明石公園の菊人形展。
小学校時代に…って、50年以上前だけど、遠足で何度も行った。
なので、今でも山陽電車に乗ると、「遠足気分」になってしまう。
須磨を過ぎ、海が見えると、気分はもうすっかり「遠足」だ。
祭りの時は、
大人はカニ。
子どもはシャコ。
昭和50年前後生まれの姫路人は、
ほぼ全員、
「姫路っ子5つの約束」のというフレーズを知っている。
ただし、その5つが何やったかを知る子は少ない。