県公式・兵庫五国連邦プロジェクト

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なくなったものあるあるとは?

【ないある探検隊#3】ハチ北のマクドなるほド編

#ないないあるあるの投稿の中から特に気になるネタを取材する「ないある探検隊」。
今回は「ハチ北のマクドなるほド」に迫ります。
詳細はこちら>>>

【ないある探検隊#2】三宮のサソリと富士山・完結編!!!

今はないけどたしかにあった・・・そんな、私たちが覚えておきたい場所やモノを、みんなで語り合う投稿型コンテンツ、兵庫県U5H<なくなったものあるある>。
今回は、その特別取材バージョンの完結編!!!
三宮駅近くにあったとされる【巨大な富士山の看板】と【サソリの看板】。。。
ついにその全貌が明かされる!!そして、想像もしなかった意外な事実も!!!

【ないある探検隊#1】三宮のサソリと富士山

今はないけどたしかにあった・・・そんな、私たちが覚えておきたい場所やモノを、みんなで語り合う投稿型コンテンツ、兵庫県U5H<なくなったものあるある>。
今回は、その特別取材バージョン!兵庫県広報官をインタビュアーに、数ある投稿の中から特に気になるネタを徹底取材!

※動画内の効果音(フィルム)・・・OtoLogic提供
※写真提供・・・石津事務所

なくなったものあるある、新着エピソード 18/101

がら空きの新快速
榮蓮のブログさん

乗り始めたのは1972年位から。当時は10時~16時の運行だった。明石~大阪の間に三宮しか停車せず、非常にお得感があった(今は停まりすぎ)。しかし、ガラガラだった記憶はなく、朝夕は通勤電車並みに混んでいた。距離やダイヤを増やすほど乗降客も増えていき「ガリバー」の異名を持つ。

明石原人の骨
榮蓮のブログさん

直良信夫博士の事ですね。
松本清張の『石の骨』のモデルとなった方です。

「兵」ナンバー
榮蓮のブログさん

1963年頃、父が乗っていたグレーのセドリックです。内装はグレーとブルーのツートンカラー(リリアンのようなループ状の布地)でした。セドリックは、どっしりと鋼板感が強く、クッションは固め。私は、その前に乗っていたヒルマンの方が好きでした。なるほど、ナンバープレートが「兵」ですね。

大道学園
榮蓮のブログさん

京大生だった従兄が浪人中通っていた予備校です。
当時(1960年代)は入学試験があって「大道学園」に在籍しているだけで、「へ~ぇ、頭いいのね」と世間の尊敬を集める存在でした。

センター街のミッチャン
榮蓮のブログさん

中年の店員たちが不愛想でとにかく怖かった。
なのにいつ行っても若い女性でごった返していたのは、扱う商品がお洒落でレアだったから。口紅(外国製)は紙の色見本を見て購入する決まりで、ギャンブルだった。近くにアクセサリーの「芸夢」や「マミーナ」があり、せっせと通って散財した。

白砂青松の舞子海岸
榮蓮のブログさん

舞子公園は、勧進帳に出てくるような樹齢の松が林立する
風光明媚な公園でしたが、モータリゼーションの波にのまれて排気ガスですべて枯れてしまいました。二号線沿いにあった移情閣(六角堂)はパールブリッジに移転し、当時の面影は、私が写生した下手くそな絵の中にしかありません。

元町通喫茶「サントス」の西隣にありました。
元映の跡は、津川雅彦経営のおもちゃ屋「グランパパ」などが入る雑居ビルになり、店が撤退してからは雑居ビルのママです。上映時間を聞くために初めて電話した時「がんえいですか?」と尋ねると「もとえいです」と言い返され恥ずかしかった。

昭和30年代、山電須磨駅西(きつね坂のトンネル東)に
『藤田ガーデン』という名のビア・ガーデン?があった。
2号線沿いにあって、丸いぼんぼりがたくさん灯った屋外型の店だった。藤田男爵経営。当時外で飲んだり食べたりする店は珍しかったので子供心にも忘れられない。

昭和30年代、ヒルマンで神戸で遊んだ帰りは、たいてい『みかど食堂』で食事した。神戸駅と2号線の間に、鉄柵で囲っただけの広場があって、無料で駐車できるからだ。白い漆喰の天井は高く、壁際にはスチーム。電車が発着するたびに「ゴォ~」と重厚な音が響いた。現在は旅行社が入っている。

ジャン・ムーランは、1977年北野の『ローズ・ガーデン』地下で開業しました。(その後2回移転)当時の食器はエルメスではなく「yamago」という日本製でした。(家の洋食器と同じだった)1979年6月にディナーを食しましたが、残念ながら味の記憶は残っていません。