春場所が始まった。 貴景勝の取り組みの時、「ふるさと、大阪の地で…」とか言われると、「ちゃうやろ」と、思わずテレビに向かって突っ込んでしまう。
三田の某中高一貫校が母校です。 60年代末に入学したころ、「ちょっと前まで、灘中は、うちの滑り止めやったのに…」と頻りに残念がる先生がいて、「ちょっと前、ていつですか?」と訊いたら、「戦争前や」と言われました。
他県に来て、小学校とか中学校の時の思い出を話すと、なにそれ?っていわれるのが「油引き」と「日番」です。油引きはワックスがけで日番は日直なんですけど、変換でも出なかったりで初めて言われたときは何気にショックでした。
垂水のあたりで山陽電車から見える海がきれいでいつも見入ってしまいます。
海が“シケタ”時、西浦の海岸沿いを車で走ると、車に直接波や時には海藻もかぶるので、できるだけ山の道を駆使する。
土日ともなると、武庫川河川敷のあちこちで、少年野球の練習風景が見られる。 いろんなチームがあるようだが、「タテジマ」ユニホームが多いように見えるのは、気のせい、だろうか?
神戸市兵庫区出身の新郎は、東京都世田谷区出身の新婦と生活始めるのに、阪急六甲から坂を登って約15分のマンションを契約した。 住み始めると、駅から遠い上に坂もきついと不満たらたらの新婦に、「けど、阪急やで。阪急なんやで」と力説したのだが、「それがどうしたのよ」と返されてしまった。
司馬遼太郎は、「大阪平野」ではなく「摂河泉平野」と呼んでいた。 その西の端っこに位置する阪神人としては、その呼び方の方が「仲間外れ」感がなくて好もしい、と思う。 兵庫県内だけを指して「阪神平野」との呼び名もあるが、「摂河泉」の方が雄大で好きだな。
玉岡かおる『夢食い魚のブルー・グッドバイ』は、戦国期「三木合戦」を描いたものを除けば、おそらく唯一の、三木を舞台にした小説。 同じ著者の『をんな紋』三部作は、現在の加西市の大地主の家に生まれ、後に小野市に嫁いだ女性の、明治・大正・昭和に亘る物語。 朝ドラにならないかな?
インテルナ北村 あのCMソングはシモンズでしたっけ? ビルの上の大きなカンバンは潰れたあともしばらく残ってましたねぇ~ 結婚すると、婚礼布団や婚礼家具をトラック🚚2~3台に積んでパレードみたいに運ぶ習慣がまだ残ってた時代からありましたもんね~。
居留地にある大きな郵便局で、1960年代の神戸港は世界第3位に入る貿易港で、局内に税関もあり、貿易関係の会社の方々で賑わっていました。”お客様ルーム”というのがあってそこを通るとでいろんな国の外国ビジネスマンが居て、国際都市神戸を感じました。震災で建物が倒壊。今は無いです。
ざじずぜぞが言えない。例えば090-****-****と携帯番号を教えてもらったら、 でろきゅうでろ-****-****と言ってしまう。ちなみに和歌山の方もざじずぜぞが言えなくて、高校生の時、和歌山出身の先生が絶対主義が言えなくて”でったいしゅぎ”とあだ名をつけたことがあります。
「青木」「大沢」「宅原」、簡単に読めそうなのに実は難読地名、というこの三つは、いずれも神戸市内にある。 それぞれ、「おうぎ」「おおぞう」「えいばら」と読む。
播磨の山奥(宍粟、佐用方面)では、カメムシのことを「がいざ」と言いますが、市外でがいざはカメムシを指すことを説明すると、何かのキャラクターを想像され、「かっこいい」と返ってきます。
奈良県在住の石川県民です。この前奈良県民の友人とドライブした後、明石焼きを食べようとして店員に「明石焼き2パックください。」と言ったら店員が「ちゃうぞボケェ明石焼きとちゃうぞゴラァ!!」とキレて結構ビビりました。
福知山線の柏原駅を、「かいばら」と正しく読める日本人の割合は、ごくごく少ないと思う。 兵庫県人でも、正しい読みを知ってる人はあまり多くない、と思う。 知人が住んでいるのですが、「丹波市貝原町」と書いてくる年賀状が、たまにあるそうです。
大阪の淡路の名物として「しおまんじゅう」があるのも、道真公が間違ったのが由縁と言われています。
地元の方には顰蹙かも…なのだけど、神戸・阪神人がイメージする「播磨」は、明石、加古川、高砂、姫路と…あ、相生と龍野、赤穂もあるね、だ。 三木、小野、西脇と言われると、「あ、そう言えば」と気づくのだが、加東、加西、宍粟、佐用…とこられると、もはや位置もイメージも茫洋のままだ。
産まれたときから明石に住んでます 子供の頃によく聞いた方言です。 兵庫神戸の「なんぞいや」 八木の「そらまた」 藤江の「は~ま」 囃子言葉みたいに口ずさんでました。誰か覚えてませんか?
飾磨高校を「亀高」と呼ぶ。由来は知らない。
姫路東高校が夜になると姫路北高校に化ける
昔の映画館って「二本立て」「三本立て」が当たり前でしたよネ?! そんな言葉さえ今の人は知らないかなぁ? 映画好きだった私は、3館はしごして、三本立て+二本立て+二本立て=7本、1日で観たことがあります。
神戸や阪神間の飲み屋で、「俺は、惜しくも1回戦で負けてしもたけど、甲子園で2打数1安打、リリーフでマウンドにも上がったんや」と自慢するおっちゃんの話を、よくよく聞くと、兵庫県予選の話だったりする。 本大会の選手権に「コールド負け」は、あり得ない。
尼崎の謎の洋館(広い庭付き) 謎でもなんでもないんですけど、阪神尼崎駅から南下して国道43号を大阪方面に少し行ったところに、絵に描いたような広い庭付きの洋館を偶然見つけ、「なんじゃこりゃ!」と驚きました。「ユニチカ記念館」というもので、尼崎市が取得するそうです。
東京から我が家を訪ねてくる人に、「新大阪からJR神戸線で大阪へ出て、梅田から阪神に乗って」と教えた。 やって来たその人は、「新幹線の乗換案内で、JR神戸線なんてひと言も言わないので、不安になった」と言っていた。 JR東海の案内は、今も「東海道線」らしい。
そう言えば、神戸駅が、東海道本線の終点で、山陽本線の起点駅だ、てのは、割と忘れられがち。 それも、つい最近のことではなく、国鉄時代から、東海道線の終点は大阪で、山陽線の起点も大阪だ、と思い込んでる人は、かなり多くいた。
南野陽子「春景色」の歌詞にもある、六甲学院の「紺色の詰襟」。 これは、昭和戦前、全国的に軍国色が強まったころ、カトリック系の学校は国から迫害を受ける恐れがあったので、帝国海軍の軍服を模した制服を制定し、「海軍と同じですよ。軍国教育してますよ」と偽装(?)した名残、らしい。
夏場、神戸からの帰り、甲子園駅から乗り込んでくる乗客の表情で、「あ、今日は勝ったな」あるいは「負けたか…」と、おおよその想像がつく。 在宅時も、我が家は甲子園球場から直線で約2キロなので、中継を見てなくても「六甲おろし」が聞こえて来るか来ないか、で判断が可能だ。
真冬の播但線は、和田山〜寺前発の車両がとんでもない量の雪を積んでやってきます。 でも姫路駅に着く頃にはほとんど溶けてます。
出身校のOBに、渡哲也、渡瀬恒彦の兄弟がいて、数々の「伝説」を残していた。 自分が在学していた50と数年前、野球部がセンバツに出場したのだが、この時には、甲子園のスタンドに渡哲也の姿があったらしい。
春場所が始まった。
貴景勝の取り組みの時、「ふるさと、大阪の地で…」とか言われると、「ちゃうやろ」と、思わずテレビに向かって突っ込んでしまう。
三田の某中高一貫校が母校です。
60年代末に入学したころ、「ちょっと前まで、灘中は、うちの滑り止めやったのに…」と頻りに残念がる先生がいて、「ちょっと前、ていつですか?」と訊いたら、「戦争前や」と言われました。
他県に来て、小学校とか中学校の時の思い出を話すと、なにそれ?っていわれるのが「油引き」と「日番」です。油引きはワックスがけで日番は日直なんですけど、変換でも出なかったりで初めて言われたときは何気にショックでした。
垂水のあたりで山陽電車から見える海がきれいでいつも見入ってしまいます。
海が“シケタ”時、西浦の海岸沿いを車で走ると、車に直接波や時には海藻もかぶるので、できるだけ山の道を駆使する。
土日ともなると、武庫川河川敷のあちこちで、少年野球の練習風景が見られる。
いろんなチームがあるようだが、「タテジマ」ユニホームが多いように見えるのは、気のせい、だろうか?
神戸市兵庫区出身の新郎は、東京都世田谷区出身の新婦と生活始めるのに、阪急六甲から坂を登って約15分のマンションを契約した。
住み始めると、駅から遠い上に坂もきついと不満たらたらの新婦に、「けど、阪急やで。阪急なんやで」と力説したのだが、「それがどうしたのよ」と返されてしまった。
司馬遼太郎は、「大阪平野」ではなく「摂河泉平野」と呼んでいた。
その西の端っこに位置する阪神人としては、その呼び方の方が「仲間外れ」感がなくて好もしい、と思う。
兵庫県内だけを指して「阪神平野」との呼び名もあるが、「摂河泉」の方が雄大で好きだな。
玉岡かおる『夢食い魚のブルー・グッドバイ』は、戦国期「三木合戦」を描いたものを除けば、おそらく唯一の、三木を舞台にした小説。
同じ著者の『をんな紋』三部作は、現在の加西市の大地主の家に生まれ、後に小野市に嫁いだ女性の、明治・大正・昭和に亘る物語。
朝ドラにならないかな?
インテルナ北村 あのCMソングはシモンズでしたっけ? ビルの上の大きなカンバンは潰れたあともしばらく残ってましたねぇ~
結婚すると、婚礼布団や婚礼家具をトラック🚚2~3台に積んでパレードみたいに運ぶ習慣がまだ残ってた時代からありましたもんね~。
居留地にある大きな郵便局で、1960年代の神戸港は世界第3位に入る貿易港で、局内に税関もあり、貿易関係の会社の方々で賑わっていました。”お客様ルーム”というのがあってそこを通るとでいろんな国の外国ビジネスマンが居て、国際都市神戸を感じました。震災で建物が倒壊。今は無いです。
ざじずぜぞが言えない。例えば090-****-****と携帯番号を教えてもらったら、
でろきゅうでろ-****-****と言ってしまう。ちなみに和歌山の方もざじずぜぞが言えなくて、高校生の時、和歌山出身の先生が絶対主義が言えなくて”でったいしゅぎ”とあだ名をつけたことがあります。
「青木」「大沢」「宅原」、簡単に読めそうなのに実は難読地名、というこの三つは、いずれも神戸市内にある。
それぞれ、「おうぎ」「おおぞう」「えいばら」と読む。
播磨の山奥(宍粟、佐用方面)では、カメムシのことを「がいざ」と言いますが、市外でがいざはカメムシを指すことを説明すると、何かのキャラクターを想像され、「かっこいい」と返ってきます。
奈良県在住の石川県民です。この前奈良県民の友人とドライブした後、明石焼きを食べようとして店員に「明石焼き2パックください。」と言ったら店員が「ちゃうぞボケェ明石焼きとちゃうぞゴラァ!!」とキレて結構ビビりました。
福知山線の柏原駅を、「かいばら」と正しく読める日本人の割合は、ごくごく少ないと思う。
兵庫県人でも、正しい読みを知ってる人はあまり多くない、と思う。
知人が住んでいるのですが、「丹波市貝原町」と書いてくる年賀状が、たまにあるそうです。
大阪の淡路の名物として「しおまんじゅう」があるのも、道真公が間違ったのが由縁と言われています。
地元の方には顰蹙かも…なのだけど、神戸・阪神人がイメージする「播磨」は、明石、加古川、高砂、姫路と…あ、相生と龍野、赤穂もあるね、だ。
三木、小野、西脇と言われると、「あ、そう言えば」と気づくのだが、加東、加西、宍粟、佐用…とこられると、もはや位置もイメージも茫洋のままだ。
産まれたときから明石に住んでます
子供の頃によく聞いた方言です。
兵庫神戸の「なんぞいや」
八木の「そらまた」
藤江の「は~ま」
囃子言葉みたいに口ずさんでました。誰か覚えてませんか?
飾磨高校を「亀高」と呼ぶ。由来は知らない。
姫路東高校が夜になると姫路北高校に化ける
昔の映画館って「二本立て」「三本立て」が当たり前でしたよネ?!
そんな言葉さえ今の人は知らないかなぁ? 映画好きだった私は、3館はしごして、三本立て+二本立て+二本立て=7本、1日で観たことがあります。
神戸や阪神間の飲み屋で、「俺は、惜しくも1回戦で負けてしもたけど、甲子園で2打数1安打、リリーフでマウンドにも上がったんや」と自慢するおっちゃんの話を、よくよく聞くと、兵庫県予選の話だったりする。
本大会の選手権に「コールド負け」は、あり得ない。
尼崎の謎の洋館(広い庭付き)
謎でもなんでもないんですけど、阪神尼崎駅から南下して国道43号を大阪方面に少し行ったところに、絵に描いたような広い庭付きの洋館を偶然見つけ、「なんじゃこりゃ!」と驚きました。「ユニチカ記念館」というもので、尼崎市が取得するそうです。
東京から我が家を訪ねてくる人に、「新大阪からJR神戸線で大阪へ出て、梅田から阪神に乗って」と教えた。
やって来たその人は、「新幹線の乗換案内で、JR神戸線なんてひと言も言わないので、不安になった」と言っていた。
JR東海の案内は、今も「東海道線」らしい。
そう言えば、神戸駅が、東海道本線の終点で、山陽本線の起点駅だ、てのは、割と忘れられがち。
それも、つい最近のことではなく、国鉄時代から、東海道線の終点は大阪で、山陽線の起点も大阪だ、と思い込んでる人は、かなり多くいた。
南野陽子「春景色」の歌詞にもある、六甲学院の「紺色の詰襟」。
これは、昭和戦前、全国的に軍国色が強まったころ、カトリック系の学校は国から迫害を受ける恐れがあったので、帝国海軍の軍服を模した制服を制定し、「海軍と同じですよ。軍国教育してますよ」と偽装(?)した名残、らしい。
夏場、神戸からの帰り、甲子園駅から乗り込んでくる乗客の表情で、「あ、今日は勝ったな」あるいは「負けたか…」と、おおよその想像がつく。
在宅時も、我が家は甲子園球場から直線で約2キロなので、中継を見てなくても「六甲おろし」が聞こえて来るか来ないか、で判断が可能だ。
真冬の播但線は、和田山〜寺前発の車両がとんでもない量の雪を積んでやってきます。
でも姫路駅に着く頃にはほとんど溶けてます。
出身校のOBに、渡哲也、渡瀬恒彦の兄弟がいて、数々の「伝説」を残していた。
自分が在学していた50と数年前、野球部がセンバツに出場したのだが、この時には、甲子園のスタンドに渡哲也の姿があったらしい。