灘区のみならず、全国的な絶滅危惧種。 某女子高の冬夏共にワンピースの制服。 夏服のみワンピースの学校は阪神間に多いし、全国的にもちらほらあるようですが、冬服もはおそらくここだけ。 大切にしたいものです、ファミリアのお稽古カバンとともに。
「ふるさとあるある」とは少し違うのですが、 修学旅行などで地方、例えば信州や九州、四国などに行ったとき、TV番組の少なさに驚いたことがあります。 但馬は田舎ですが、(なんとか)関西圏なので神戸や大阪と同じTV局数・番組を見ることができ、なんとなく誇らしく感じたものでした。
テレビのチャンネル、1960年代では、「2・4・6・8・10・12」でしたが、垂水区押部谷町の親戚では違っていて、NHKが「5」だっけな? 民放は、2局ほどで、確か岡山から入ってたと記憶します。 1965年には、まだ上記の状態だったのは確か。 他に、そんな地域、ありました?
現在の北区に住宅団地が続々とでき始めた昭和40年代。都会から越してきた子が、冬、ため池に張った氷の上に乗っては、一番深い所で氷が割れて落ちる、という事故が度々あった。 「原住民」の我々は、周縁部は厚くても、真ん中に行くほど氷は薄くなる…のを知ってたが、彼らは、それを知らなかった。
トラックの荷台に電飾を施し5月の夕暮れ時2国を走っていた花自動車はエレクトリカルパードの先駆けだ!と思っている。
神戸市北区が「元は兵庫区」で、西区は「元は垂水区」という話をすると、たいていの人が、「え?ウソ!?」と反応するようになってきた。 有馬郡、武庫郡、明石郡とくると、もはや想像もつかず、時代劇の世界。 昭和は、まことに遠くなりました。
尼崎中央通り商店街、毎年、3月になるとアーケードのモニュメントにタイガースの「マジックナンバー143」が掲げられ、「日本一早く阪神にマジックが出る街」として知られる。 が、マジックは決して「0」になることなくシーズンを終えるのがここ最近なのだが、今年は、期待できそう…かな?
仕事が遅くまでかかって、やっとの思いで灘区や東灘区の地元の駅に帰ってきて 市バスが終わってた時の絶望感…これから家帰んの、登山やん…
神戸を離れて東京で暮らしたことのある人なら、わかってくれますよね。 じつは海が見えないことよりも、山が見えないことのほうが精神的にキツいんです。 山が遠い関東平野では、ほんま自分がどこおるんかわからん…
神戸のぜいたくとは? お洒落なパン屋さんで本場顔負けのフランスパンなんかを買った後 昔ながらの市場の魚屋さんで、垂水あたりで上がった新鮮なイワシを買うこと。
1980年代末に、14年ぶりで神戸へ帰ってきた。 コープの店頭で「神戸ノート」が、自分が小学生時代に使っていたのと同じデザインで売られているのを見て、「まだあったんだ…」と驚愕した。 今もなお、神戸の小学生にはこのノートが定番。神戸ノートは、神戸の文化遺産に認定すべき、と思う。
丹波立杭焼は、日本六古窯の一つで日本遺産にも認定されており、毎年10月の丹波焼陶器まつりには、臨時バスも運行され、丹波篠山市の人口の3倍もの人が集まる大人気イベントになっている。
東京にいたころ、月に一度、神戸への出張があった。 ある時、神戸のホテルに着いてテレビをつけると、甲子園の高校野球を中継してて、同行してた同僚が、イニングの合間に入るCMに「なに、これ?」と驚愕の表情。 関東人の彼には、民放の甲子園中継は初体験で、とても刺激的だったみたいです。
北区山田町の実家で祖父が亡くなったのは、1966年。棺は、親族の男たちの手で山の上の共同墓地まで約30分かけて運び上げられ、土葬にふされた。 棺を納める穴、縦横およそ2m×1m、深さ2mほどの四角い穴は、村の有志の手で、前日に掘られていた。 ここは、1970年代末まで土葬だった。
土葬のための穴を掘った男たちが墓から帰ってくると、酒と御馳走で手厚くもてなすのが慣例だった。 その年の初盆には、仏間の鴨居に檜の葉で神棚のような「家」を設えて、霊が帰ってくる場所を作ったのでした。 けっこう大きくて、犬小屋くらいの大きさでした。
但馬の山奥へ遊びに行った時、山菜料理のお店のご夫婦に「播磨は冬でも明るくて温暖で良いですね」と言われた。 別の年に丹波で丹波大納言のお店に行ったら「播磨は冬でも明るくて温暖で良いですね」と言われた。初めて自分はええとこに住んでると気がついた。でも丹波も但馬も美味しい物いっぱいや!
但馬人は谷の入り口方向を下(しも)、谷の奥方向を上(かみ)と呼ぶ。
昔大阪の友達と喋ってると 〜知っとう?って言うと神戸の人やなと言われた。
市バスがほぼないので、バスの「運賃一律○○○円」の意味がわからない子供が多い。
日本で唯一の市立高専である神戸市立高専がある。ほとんど認知されていないが。更に言えば播磨の明石高専は日本一学力の高い高専なので埋もれがち。
神戸にあるけど「明石海峡大橋」 淡路でも獲れるけど「明石だこ」 地元で玉子焼きって呼んでるのに「明石焼き」 どれだけ北を通っていても「子午線のまち 明石」
播州弁で相手を指すときに「自分」と言うから、播州弁使わない地域で「自分、何しとん?」と言うと笑われるか訝しげな顔をされる。
小さい子供のころ”灘””白浜”と聞くと神戸の灘や和歌山の白浜を知らなくて全て姫路の白浜と灘と勘違いしてニュースを見ていた。
どなたかが触れられてましたが、神戸・阪神の女子校には、いわゆる伝統校が多く、他の学校も制服はこれら伝統校に「右へ倣え」するもんで、兵庫県、ことに神戸阪神は、女子高生の「ミニスカ率」が日本一低いんだそうです。
淡の文字は「だん」とも読む。 南あわじには西淡町と南淡町の名残りがある。 淡路市には北淡もあるが、東淡は聞いたことがない。
神戸では『南北』を『海側、山側』と言うことがあるのはすでにのネタですが、私は『下、上』で表現することがあります。地図上で北が上だからという意味ではなく、北(山側)が高いところ、つまり上にあるからです。
神戸人は元町、森谷のコロッケに行列がないと見ると、今日はなんてラッキーなんだと、コロッケが食べたくなくても買ってしまう。
「阪急仁川駅の西北側で待ってて」というから下りホーム(西側にある)の一番北端で待ってたら来ない。「西北側」というのは「西宮北口駅側」、つまり南側という意味だった。
但馬では車移動がほとんど。10分走れば10㎞ぐらいと予想しながら走ります。 神戸、阪神に行くとがんばって走ってもちょっとしか進んでません。走行距離をみて、まだご近所にいくぐらいしか進んでないことに愕然とします。
神戸、阪神間では基本、坂を上がれば北でその先には当然山があり、東西方向の坂を上がればその先には当然のように川がある。(天井川が多いため)
灘区のみならず、全国的な絶滅危惧種。
某女子高の冬夏共にワンピースの制服。
夏服のみワンピースの学校は阪神間に多いし、全国的にもちらほらあるようですが、冬服もはおそらくここだけ。
大切にしたいものです、ファミリアのお稽古カバンとともに。
「ふるさとあるある」とは少し違うのですが、
修学旅行などで地方、例えば信州や九州、四国などに行ったとき、TV番組の少なさに驚いたことがあります。
但馬は田舎ですが、(なんとか)関西圏なので神戸や大阪と同じTV局数・番組を見ることができ、なんとなく誇らしく感じたものでした。
テレビのチャンネル、1960年代では、「2・4・6・8・10・12」でしたが、垂水区押部谷町の親戚では違っていて、NHKが「5」だっけな?
民放は、2局ほどで、確か岡山から入ってたと記憶します。
1965年には、まだ上記の状態だったのは確か。
他に、そんな地域、ありました?
現在の北区に住宅団地が続々とでき始めた昭和40年代。都会から越してきた子が、冬、ため池に張った氷の上に乗っては、一番深い所で氷が割れて落ちる、という事故が度々あった。
「原住民」の我々は、周縁部は厚くても、真ん中に行くほど氷は薄くなる…のを知ってたが、彼らは、それを知らなかった。
トラックの荷台に電飾を施し5月の夕暮れ時2国を走っていた花自動車はエレクトリカルパードの先駆けだ!と思っている。
神戸市北区が「元は兵庫区」で、西区は「元は垂水区」という話をすると、たいていの人が、「え?ウソ!?」と反応するようになってきた。
有馬郡、武庫郡、明石郡とくると、もはや想像もつかず、時代劇の世界。
昭和は、まことに遠くなりました。
尼崎中央通り商店街、毎年、3月になるとアーケードのモニュメントにタイガースの「マジックナンバー143」が掲げられ、「日本一早く阪神にマジックが出る街」として知られる。
が、マジックは決して「0」になることなくシーズンを終えるのがここ最近なのだが、今年は、期待できそう…かな?
仕事が遅くまでかかって、やっとの思いで灘区や東灘区の地元の駅に帰ってきて
市バスが終わってた時の絶望感…これから家帰んの、登山やん…
神戸を離れて東京で暮らしたことのある人なら、わかってくれますよね。
じつは海が見えないことよりも、山が見えないことのほうが精神的にキツいんです。
山が遠い関東平野では、ほんま自分がどこおるんかわからん…
神戸のぜいたくとは?
お洒落なパン屋さんで本場顔負けのフランスパンなんかを買った後
昔ながらの市場の魚屋さんで、垂水あたりで上がった新鮮なイワシを買うこと。
1980年代末に、14年ぶりで神戸へ帰ってきた。
コープの店頭で「神戸ノート」が、自分が小学生時代に使っていたのと同じデザインで売られているのを見て、「まだあったんだ…」と驚愕した。
今もなお、神戸の小学生にはこのノートが定番。神戸ノートは、神戸の文化遺産に認定すべき、と思う。
丹波立杭焼は、日本六古窯の一つで日本遺産にも認定されており、毎年10月の丹波焼陶器まつりには、臨時バスも運行され、丹波篠山市の人口の3倍もの人が集まる大人気イベントになっている。
東京にいたころ、月に一度、神戸への出張があった。
ある時、神戸のホテルに着いてテレビをつけると、甲子園の高校野球を中継してて、同行してた同僚が、イニングの合間に入るCMに「なに、これ?」と驚愕の表情。
関東人の彼には、民放の甲子園中継は初体験で、とても刺激的だったみたいです。
北区山田町の実家で祖父が亡くなったのは、1966年。棺は、親族の男たちの手で山の上の共同墓地まで約30分かけて運び上げられ、土葬にふされた。
棺を納める穴、縦横およそ2m×1m、深さ2mほどの四角い穴は、村の有志の手で、前日に掘られていた。
ここは、1970年代末まで土葬だった。
土葬のための穴を掘った男たちが墓から帰ってくると、酒と御馳走で手厚くもてなすのが慣例だった。
その年の初盆には、仏間の鴨居に檜の葉で神棚のような「家」を設えて、霊が帰ってくる場所を作ったのでした。
けっこう大きくて、犬小屋くらいの大きさでした。
但馬の山奥へ遊びに行った時、山菜料理のお店のご夫婦に「播磨は冬でも明るくて温暖で良いですね」と言われた。
別の年に丹波で丹波大納言のお店に行ったら「播磨は冬でも明るくて温暖で良いですね」と言われた。初めて自分はええとこに住んでると気がついた。でも丹波も但馬も美味しい物いっぱいや!
但馬人は谷の入り口方向を下(しも)、谷の奥方向を上(かみ)と呼ぶ。
昔大阪の友達と喋ってると 〜知っとう?って言うと神戸の人やなと言われた。
市バスがほぼないので、バスの「運賃一律○○○円」の意味がわからない子供が多い。
日本で唯一の市立高専である神戸市立高専がある。ほとんど認知されていないが。更に言えば播磨の明石高専は日本一学力の高い高専なので埋もれがち。
神戸にあるけど「明石海峡大橋」
淡路でも獲れるけど「明石だこ」
地元で玉子焼きって呼んでるのに「明石焼き」
どれだけ北を通っていても「子午線のまち 明石」
播州弁で相手を指すときに「自分」と言うから、播州弁使わない地域で「自分、何しとん?」と言うと笑われるか訝しげな顔をされる。
小さい子供のころ”灘””白浜”と聞くと神戸の灘や和歌山の白浜を知らなくて全て姫路の白浜と灘と勘違いしてニュースを見ていた。
どなたかが触れられてましたが、神戸・阪神の女子校には、いわゆる伝統校が多く、他の学校も制服はこれら伝統校に「右へ倣え」するもんで、兵庫県、ことに神戸阪神は、女子高生の「ミニスカ率」が日本一低いんだそうです。
淡の文字は「だん」とも読む。
南あわじには西淡町と南淡町の名残りがある。
淡路市には北淡もあるが、東淡は聞いたことがない。
神戸では『南北』を『海側、山側』と言うことがあるのはすでにのネタですが、私は『下、上』で表現することがあります。地図上で北が上だからという意味ではなく、北(山側)が高いところ、つまり上にあるからです。
神戸人は元町、森谷のコロッケに行列がないと見ると、今日はなんてラッキーなんだと、コロッケが食べたくなくても買ってしまう。
「阪急仁川駅の西北側で待ってて」というから下りホーム(西側にある)の一番北端で待ってたら来ない。「西北側」というのは「西宮北口駅側」、つまり南側という意味だった。
但馬では車移動がほとんど。10分走れば10㎞ぐらいと予想しながら走ります。
神戸、阪神に行くとがんばって走ってもちょっとしか進んでません。走行距離をみて、まだご近所にいくぐらいしか進んでないことに愕然とします。
神戸、阪神間では基本、坂を上がれば北でその先には当然山があり、東西方向の坂を上がればその先には当然のように川がある。(天井川が多いため)