東京の青山といえば、日本中誰もが知るハイソシティだが、そのルーツは、丹波篠山だ。かつて、あの辺に丹波篠山藩・青山家の下屋敷があり、さらに今の原宿から渋谷辺りも領有していたので、周辺一帯が「青山」と呼ばれるようになったのだった。
国宝&世界遺産の姫路城を、播磨人は自慢にするが、この城は、実は「箱モノ行政」の悪しき見本でもあった。江戸時代の姫路藩は、石高15万石。その税収に対して姫路城は巨大に過ぎ、城の維持のために、あちこちから借金した負債が莫大だったそうだ。喩えて言うと、人口15万の町が、40階建ての市役所を造ってしまった、みたいな?多分、年貢の取立ても厳しかったと思う。そのせいかどうか、明治になってすぐ、姫路城は民間に売りに出されていて、その値段は「100円」だったそうだ。
「甲子園」と「宝塚」の所在地を、ともに「東京だ」と思い込んでいた人を、二人知っている。一人は北海道、もう一人は秋田県出身だった。関東より遠方には、テレビの全国ネットで映る場所は、すべて「東京だ」というスリコミがある…というか、「東京より向こう」の世界は、認識できない…のかな?そう言えば、子供のころの自分も、東京が「日本の端っこ」と認識していて、それより向こうは想像できなかった。
祭りの太鼓の練習の音がするだけでやたらとワクワクする
お城=姫路城なので、大阪城のなかへ初めて入ったとき博物館みたいになっててショックをうける
最近では往時の勢いはないとは言え、1970年代~80年代、神戸・阪神は、確かに、日本の流行の発信地だった。当時、この地域の女子大生が、主に好んで着ていた洋服やファッション(「ニュートラ(ニュー・トラディショナル)」と呼ばれた)が、カレシの車で須磨や舞子のカフェやレストランでデートするライフスタイルとともに、「anan」や「JJ」などのファッション誌に特集され、流行として全国に広まった。メディアで、やたらと「女子大生」がもてはやされるようになったのも、これが震源。その後、神戸の「ニュートラ」をベースとして、横浜で生み出されたのが「ハマトラ」だった。
丹波篠山が「田舎の代名詞」になったのは、明治のころ「デカンショ節」が全国的に流行した故だ。明治時代に、元・藩主の青山家の援助で一高(東大)へ遊学した篠山出身の学生たちが、寮で歌ったところが大いにウケて、当時の一高生の愛唱歌となり、そこから全国に広まったそうだ。とりわけ、「丹波篠山、山家の猿が…」の部分が、強烈なインパクトだったみたいだ。
姫路城は、播磨全域の五十万石以上の姫路藩により建てられた。その後、姫路藩は石高を減らされても、城のメンテナンスを続けた。戊辰戦争や廃城令、戦前の焼夷弾による空襲等、多くの危機がありながらも、雄大な姿で人々を勇気づけた。その全てが播州人にとっての最大の誇りだ。
大河ドラマの岡田准一主演『黒田官兵衛』は素晴らしい播州人だが、『河合寸翁』も負けず劣らずの素晴らしい播州人だ。江戸時代、姫路藩主は幕府の重役を任されることが多く、財政がひっぱくしていた。その財政再建で手腕をふるったのが、『河合寸翁』だ。姫路の中学生なら知らない者がいないぐらいのヒーローだ。
尼崎城天守閣が復元された。どちらかというと立派な方らしいんだけど、ふだんから西隣の姫路城、東隣の大阪城を見慣れているので、「ちっちゃぁ~」と思った。
北を上。南を下と言う。例えば「JRの上にあんねん」と言う説明を「JRの北にあるのか?JRの駅ビルの上階にあるのか」はニュアンスではんだんする。
私立の親和を、「しんな」とずっと言っていた。思ってた。
他府県の人に住所を聞かれ「神戸です」と答え更に神戸のどこ?と聞かれたので「兵庫です」と答えると混乱される
神戸は坂の町なので、南北を上下で表現します。(JRの上とか阪急の下とか)ある時、一時期神戸に住んでた人と話していて、その人の居住地よりも「うちはもっと上のほう」と言って、マウンティングととられて切れられたことがあった。
出張や旅先でうえがきの鶯ボールが当たり前に売っておらず、神戸土産だと知った時の衝撃…。
明石大橋は神戸にあるのになぜと聞かれると、本当は明石海峡大橋というのだと説明。変に正式名を略すと混乱を招く
神戸っ子は。世界中のはどこよりも神戸が好き。
え?「親和」は、「しんな」じゃないの?どう読むの? 昔は、ここの生徒自身も「しんな」って言うてましたぞ。
毎年12月に甲子園球場では「タイガースカップ」が開催される。中学生の硬式野球関西No.1を競う大会だ。これを経験してから、高校野球で再び甲子園に帰って来る選手も多い。11月には、高校野球OBによる「マスターズ甲子園」も開催されている。西宮の小学校、中学の体育祭も、甲子園球場で開催される。高校野球とプロ野球以外でも、甲子園球場はフル活用されていて、まさしく西宮及び阪神地区のランドマークなのだ。
生まれも育ちも神戸の私。『神戸』という漢字の読みは、ずっと『こうべ』だけだけだと堅く信じていた。でも、三重県の賢島に旅行した折り、駅員さんに大阪からの賢島方面への連絡駅を尋ねたら、一瞬きょとんとした顔をされた。私「あの~、連絡駅は『伊賀こうべ』ですよね?」駅員「あー、『伊賀かんべ』です。その時、私は、初めて知った。神戸って『かんべ』とも読むんだと。三重県のみなさん、ゴメンなさい。※備考(WIKIPEDIA):全国の神戸の地名の読み方として「かど・かのと・かみと・かみど・かんど・かんべ・ごうと・ごうど・こうど・こうべ・じんご・じんど」と多種類の読み方が存在している。
「雨がぴりぴり降っとる。」と言うと、「痛そうっ!」とびっくりされる。雨量を表現し、しとしとでも、ぱらぱらでもありません。ぴりぴりはぴりぴりや!
「兵庫大仏」よりもっとマイナーなのが、「鵯越大仏」だ。北区山田町の鵯越墓苑にある。最寄り駅は神鉄鵯越駅。注意して見てると、電車からも「ちらっ」と見えます。神戸には、実は大仏がふたつあるのです。鵯越大仏、昔、子供のころには大仏の掌や体に登って遊んだのですが、今もできるかな?
生まれも育ちも「神戸っ子」(←ひょっとして、これもあるある?)の私は、いまだに自転車に乗れません。
お隣の大阪では、雨が降っているの中を、傘をハンドルに装着して、「大阪のおかんたち」が、自転車を走らせてました。あれは、本当にビックリした。地元(神戸の南東部)では、原付バイクの方が、自転車よりも多く見かけます。
『5倍、5倍 、ポイント5倍。お得な今日のお買いもの。ポイントご・ば・いっ♪』。これで、頭の中に歌がエンドレスに流れる。
長崎とかよりも神戸の方が中華繁華街は良いと絶対的に自身を持ってる。
街を歩くイノシシに遭遇して対処法をググった。
晴れか雨かは六甲山を見て判断する。
六甲山の言い方で神戸っ子か否かわかる
「どこ出身?」「西宮……(言うてもピンとけぇへんやろから)、大阪と神戸の真ん中ですわ」「へぇ」「でもほら、甲子園も西宮ですし」「へぇ」「(まあそんなもんか……)」
明治時代、今の神戸の街の原型を形作ったのは、旧・三田藩主の九鬼隆義とその藩士だった白洲退蔵、小寺泰次郎の3人だ、と言っても過言ではない。三田藩という藩が存在したからこそ、今の神戸がある、とも言える。山手にある相楽園は、元は小寺家の邸宅なのだった。
東京の青山といえば、日本中誰もが知るハイソシティだが、そのルーツは、丹波篠山だ。
かつて、あの辺に丹波篠山藩・青山家の下屋敷があり、さらに今の原宿から渋谷辺りも領有していたので、周辺一帯が「青山」と呼ばれるようになったのだった。
国宝&世界遺産の姫路城を、播磨人は自慢にするが、この城は、実は「箱モノ行政」の悪しき見本でもあった。
江戸時代の姫路藩は、石高15万石。その税収に対して姫路城は巨大に過ぎ、城の維持のために、あちこちから借金した負債が莫大だったそうだ。
喩えて言うと、人口15万の町が、40階建ての市役所を造ってしまった、みたいな?
多分、年貢の取立ても厳しかったと思う。
そのせいかどうか、明治になってすぐ、姫路城は民間に売りに出されていて、その値段は「100円」だったそうだ。
「甲子園」と「宝塚」の所在地を、ともに「東京だ」と思い込んでいた人を、二人知っている。
一人は北海道、もう一人は秋田県出身だった。
関東より遠方には、テレビの全国ネットで映る場所は、すべて「東京だ」というスリコミがある…というか、「東京より向こう」の世界は、認識できない…のかな?
そう言えば、子供のころの自分も、東京が「日本の端っこ」と認識していて、それより向こうは想像できなかった。
祭りの太鼓の練習の音がするだけでやたらとワクワクする
お城=姫路城なので、大阪城のなかへ初めて入ったとき博物館みたいになっててショックをうける
最近では往時の勢いはないとは言え、1970年代~80年代、神戸・阪神は、確かに、日本の流行の発信地だった。
当時、この地域の女子大生が、主に好んで着ていた洋服やファッション(「ニュートラ(ニュー・トラディショナル)」と呼ばれた)が、カレシの車で須磨や舞子のカフェやレストランでデートするライフスタイルとともに、「anan」や「JJ」などのファッション誌に特集され、流行として全国に広まった。
メディアで、やたらと「女子大生」がもてはやされるようになったのも、これが震源。
その後、神戸の「ニュートラ」をベースとして、横浜で生み出されたのが「ハマトラ」だった。
丹波篠山が「田舎の代名詞」になったのは、明治のころ「デカンショ節」が全国的に流行した故だ。
明治時代に、元・藩主の青山家の援助で一高(東大)へ遊学した篠山出身の学生たちが、寮で歌ったところが大いにウケて、当時の一高生の愛唱歌となり、そこから全国に広まったそうだ。
とりわけ、「丹波篠山、山家の猿が…」の部分が、強烈なインパクトだったみたいだ。
姫路城は、播磨全域の五十万石以上の姫路藩により建てられた。その後、姫路藩は石高を減らされても、城のメンテナンスを続けた。戊辰戦争や廃城令、戦前の焼夷弾による空襲等、多くの危機がありながらも、雄大な姿で人々を勇気づけた。その全てが播州人にとっての最大の誇りだ。
大河ドラマの岡田准一主演『黒田官兵衛』は素晴らしい播州人だが、『河合寸翁』も負けず劣らずの素晴らしい播州人だ。
江戸時代、姫路藩主は幕府の重役を任されることが多く、財政がひっぱくしていた。その財政再建で手腕をふるったのが、『河合寸翁』だ。姫路の中学生なら知らない者がいないぐらいのヒーローだ。
尼崎城天守閣が復元された。
どちらかというと立派な方らしいんだけど、ふだんから西隣の姫路城、東隣の大阪城を見慣れているので、「ちっちゃぁ~」と思った。
北を上。南を下と言う。
例えば
「JRの上にあんねん」と言う説明を「JRの北にあるのか?JRの駅ビルの上階にあるのか」はニュアンスではんだんする。
私立の親和を、「しんな」とずっと言っていた。思ってた。
他府県の人に住所を聞かれ「神戸です」と答え更に神戸のどこ?と聞かれたので「兵庫です」と答えると混乱される
神戸は坂の町なので、南北を上下で表現します。(JRの上とか阪急の下とか)ある時、一時期神戸に住んでた人と話していて、その人の居住地よりも「うちはもっと上のほう」と言って、マウンティングととられて切れられたことがあった。
出張や旅先でうえがきの鶯ボールが当たり前に売っておらず、神戸土産だと知った時の衝撃…。
明石大橋は神戸にあるのになぜと聞かれると、本当は明石海峡大橋というのだと説明。変に正式名を略すと混乱を招く
神戸っ子は。
世界中のはどこよりも神戸が好き。
え?
「親和」は、「しんな」じゃないの?
どう読むの?
昔は、ここの生徒自身も「しんな」って言うてましたぞ。
毎年12月に甲子園球場では「タイガースカップ」が開催される。
中学生の硬式野球関西No.1を競う大会だ。
これを経験してから、高校野球で再び甲子園に帰って来る選手も多い。
11月には、高校野球OBによる「マスターズ甲子園」も開催されている。
西宮の小学校、中学の体育祭も、甲子園球場で開催される。
高校野球とプロ野球以外でも、甲子園球場はフル活用されていて、まさしく西宮及び阪神地区のランドマークなのだ。
生まれも育ちも神戸の私。『神戸』という漢字の読みは、ずっと『こうべ』だけだけだと堅く信じていた。でも、三重県の賢島に旅行した折り、駅員さんに大阪からの賢島方面への連絡駅を尋ねたら、一瞬きょとんとした顔をされた。私「あの~、連絡駅は『伊賀こうべ』ですよね?」駅員「あー、『伊賀かんべ』です。その時、私は、初めて知った。神戸って『かんべ』とも読むんだと。三重県のみなさん、ゴメンなさい。
※備考(WIKIPEDIA):全国の神戸の地名の読み方として「かど・かのと・かみと・かみど・かんど・かんべ・ごうと・ごうど・こうど・こうべ・じんご・じんど」と多種類の読み方が存在している。
「雨がぴりぴり降っとる。」
と言うと、「痛そうっ!」とびっくりされる。
雨量を表現し、しとしとでも、ぱらぱらでもありません。ぴりぴりはぴりぴりや!
「兵庫大仏」よりもっとマイナーなのが、「鵯越大仏」だ。
北区山田町の鵯越墓苑にある。
最寄り駅は神鉄鵯越駅。注意して見てると、電車からも「ちらっ」と見えます。
神戸には、実は大仏がふたつあるのです。
鵯越大仏、昔、子供のころには大仏の掌や体に登って遊んだのですが、今もできるかな?
生まれも育ちも「神戸っ子」(←ひょっとして、これもあるある?)の私は、いまだに自転車に乗れません。
お隣の大阪では、雨が降っているの中を、傘をハンドルに装着して、「大阪のおかんたち」が、自転車を走らせてました。あれは、本当にビックリした。
地元(神戸の南東部)では、原付バイクの方が、自転車よりも多く見かけます。
『5倍、5倍 、ポイント5倍。お得な今日のお買いもの。ポイントご・ば・いっ♪』。これで、頭の中に歌がエンドレスに流れる。
長崎とかよりも神戸の方が中華繁華街は良いと絶対的に自身を持ってる。
街を歩くイノシシに遭遇して対処法をググった。
晴れか雨かは六甲山を見て判断する。
六甲山の言い方で神戸っ子か否かわかる
「どこ出身?」「西宮……(言うてもピンとけぇへんやろから)、大阪と神戸の真ん中ですわ」
「へぇ」「でもほら、甲子園も西宮ですし」
「へぇ」「(まあそんなもんか……)」
明治時代、今の神戸の街の原型を形作ったのは、旧・三田藩主の九鬼隆義とその藩士だった白洲退蔵、小寺泰次郎の3人だ、と言っても過言ではない。
三田藩という藩が存在したからこそ、今の神戸がある、とも言える。
山手にある相楽園は、元は小寺家の邸宅なのだった。