50年前の「修学旅行のしおり」が出てきた。 これによると、朝の7:40中突堤発の関西汽船で別府着が21:30。その夜は城島高原まで移動して宿泊。 その後、阿蘇、熊本、鹿児島、宮崎を巡って別府に戻り、又も関西汽船で18:00別府発、翌朝10:00 神戸港着、という5泊5日だった。
1960年代の年末、松山へ家族旅行。 2等しか切符が手に入らず、神戸からでは席が確保できないと、始発の弁天埠頭から神戸・松山経由の別府行きの夜便に。 港の待合室には人が溢れかえっていて、乗船が始まると、船底の2等船室はたちまち満員に。 あぶれた人は、廊下に寝てました。さらに…
年末の関西汽船別府航路、船室に入りきらなかった人は、食堂や、トイレにまで毛布を敷いて横たわり、甲板には風よけのシートが張ってあって、そこにも人が寝てました。 阿久悠・原作の映画『瀬戸内ムーンライトセレナーデ』に、終戦直後の別府航路が描かれてますが、60年代でも、まさにあんな感じ
中学校の修学旅行はそれまでの東京からぼくらの年は四国へ。往路は中突堤から夜に船で出て、松山に朝に着きました。帰りは高松から午後に乗って夜に中突堤に帰って来たように覚えてます。小学校の時ボーイスカウトで小豆島にキャンプに行った時も中突堤を夜に出てまだ夜が明けてなくて暗い坂出港着。
高校の修学旅行は1972年。中突堤を朝に出て夕方別府着の関西汽船。 九州半周四泊五日の後、帰りは別府発の夜便で、翌朝神戸着だった。 大学生のとき、やはり中突堤から加藤汽船で小豆島へひと夏のアルバイトに。 いずれもフェリーではなくて、かなり大型の「客船」だったのが、懐かしいですね。
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