福知山線の隙間だらけのJR車両
エピソード
ちょっと補足。「ゴミだらけ」というのは、当時の列車では、駅弁の空きガラやビールの空き缶、等々のゴミは、座席の下に突っ込んでおくのがデフォだったから、博多からはるばる米子まで来ると、すでにゴミだらけ、ということ。
途中から乗り込んだ係の人が、四角い大籠を引きずってゴミを回収してた。
他のエピソード
記憶違いでした。福知山線の特急は、「まつかぜ」と「やくも」の2本があったらしい。
「まつかぜ」は新大阪発の博多行で、「やくも」は浜田行。福知山線内の停車駅は、ともに宝塚だけでした。
70年代に米子から「まつかぜ」に乗ると、車内は既にゴミだらけだった。
宝塚から神戸へ帰った。
国鉄時代の福知山線では、上りの普通列車で来た乗客の大半が、宝塚で阪急に乗り換えていました。大阪着時間は、そちらがはるかに早かったから。
なので、宝塚を過ぎると、列車はガラ空きとなるのでした。
ちなみに福知山線内の特急停車駅は、宝塚だけでした…が、「特急」も、1日1本だけ、でした。
「隙間」と言えば、「汽車」通学の同級生が、走行中の列車のデッキから転落して、足を折る大怪我を負ったことが。
ドアが開けっ放しのデッキでふざけていて、足を滑らせた。
列車から落ちるのは「自己責任」で、国鉄から別段の補償はなかったように記憶します。
福知山線が新三田まで電化・複線化されたのは1986年。
なので、ある程度以上の年齢の人(我々です)には、今なお、福知山線と言えば、「電車」よりも「汽車(気動車)」というイメージが強い。
電化前の秋、所用でこの線に乗った東京の知人は、宝塚‐三田間の絶景に感激してました。
電化前の福知山線は、汽車の場合、ドアは開けっ放しだったけど、デッキがあったので、さほど寒さは感じませんでした。
気動車は、かなり隙間風が入ってきてた・・・ような記憶がありますが、さほどスピードは出なかった(大阪ー三田・所要90分)ので、我慢できる範囲内だったと思います。
冬場、大阪から三田、篠山方面へ向かうとき、西宮名塩を過ぎた辺りのトンネルを通過するたび、すきま風で車内温度が下がる。なので居眠りしてても目が覚めて寝過ごすことも少なかった。
今はすきま風が入る事もなく
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