JR加古川線は元々、加古川の舟運との連絡を優先して敷設されたので、結果、どの駅も町からかなり離れたところになってしまったそうです。 人よりも、貨物優先の路線だったんですね。
1956年に神戸新聞社に入社した横尾忠則さんは、後に神戸で下宿するまで、鍛冶屋線ー加古川線ー山陽線と汽車を乗り継いで神戸まで通っていたそうです。 「神戸は遠いから」と、お母さんが毎日傘を持たせてくれたとか。
玉岡かおるさんの『をんな紋』は、現在の小野市、加西市周辺を舞台に、女性から女性に受け継がれる系譜とともに、加古川流域及び加古川線沿線の盛衰を、明治末から大正、昭和にかけて描いております。
もう1本の北条線は、現在も「北条鉄道」として存続してますが、あの、ごく短いローカル線である加古川線に、これだけの枝というか支線があったのは、沿線の各地に地場産業が盛んで、その輸送需要があったから、ではないでしょうか。
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